観葉植物ラボ
研究ノート第一巻|004 日本の植物文化を形づくった人物たち(下)
人・文化・空間・視覚から読み解く、装飾グリーンという問い
研究ノート004|日本の植物文化を形づくった人物たち(下)
商業化・大衆化・インテリアへの転換
はじめに(研究課題の明示)
本研究ノートでは、日本の植物文化が「商業化」「大衆化」「インテリア化」へと移行していく過程を、結果論として単純化するのではなく、その時代ごとに存在した実務上の判断や社会条件の積み重ねとして検討する。
本ノートで用いる「観葉植物」という言葉は、現在では一般化した概念であるが、明治から昭和初期にかけては、現在のような明確な分類概念として定着していたわけではない。当時の実務現場では、植物は「鉢物」「植木」「温室植物」などとして扱われ、販売対象であると同時に、室内や建築空間を構成する装飾素材の一つでもあった。
そのため本ノートでは、後年成立した「観葉植物」という完成済みカテゴリーから歴史を逆算するのではなく、「植物をいかに流通させ、維持し、空間の中で美しく見せるか」という実務上の課題に向き合った人々の活動に注目する。
とくに焦点を当てるのは、思想家や研究者だけではなく、種苗商、園芸業者、売場担当者、施設管理者、装飾担当者といった現場実務者たちである。日本の植物文化は、学術研究だけでは説明しきれない、流通、販売、展示、維持管理といった日常実務の積み重ねと相互作用しながら発展してきたと考えられる。
彼らの多くは、自らを「文化形成者」として意識していたわけではなかったと考えられる。むしろ、限られた条件の中で、植物を安定的に供給し、維持し、より良い状態で見せようとする実務的改善を継続していたとみられる。
その積み重ねが、結果として都市生活の中に植物を定着させ、日本独自の植物文化の一部を形成していった可能性があると、本ノートでは捉える。
本研究ノートは、その無数の実務と改善の蓄積を、文化形成過程の一側面として整理・検討する試みである。
Ⅰ. 商業化の担い手たち
植物を「売る」必要に迫られた人々
1. 種苗商・園芸業者という実務者層
明治後期、日本における植物流通の変化を実務面から支えたのは、学術研究者だけではなく、民間の種苗商や園芸業者であった。
当時、西洋由来の草花や温室植物の導入が進む中で、植物を継続的に販売・流通させるためには、名称整理、品種管理、価格設定、輸送、栽培管理といった実務上の整備が必要となった。植物は単なる自然物ではなく、一定品質で供給される商品として扱われるようになっていったと考えられる。
こうした変化は、思想的・文化的主張として行われたというよりも、事業継続や需要対応のための実務的合理化として進められた側面が大きい。しかしその合理化によって、植物は限られた愛好家だけの存在から、一般消費者でも購入可能な商品へと変化していったと考えられる。
本ノートでは、この過程を「植物の商品化」という視点から捉える。
2. なぜ商業化が必要だったのか
背景には、明治後期以降の都市化と生活環境の変化がある。
人口集中が進む都市部では、従来のような広い庭園空間を持たない住宅も増加していった。その結果、植物は庭園鑑賞だけではなく、鉢植えとして室内や限られた空間で扱われる需要が高まっていったと考えられる。
また、中産階級の形成や百貨店文化の発展に伴い、植物は実用品というよりも、生活空間を整える装飾要素として扱われる場面が増えていった。こうした需要に対応するためには、管理しやすく、選択しやすく、一定品質を維持できる商品形態が求められるようになったと考えられる。
そのため商業化は、文化が成熟した結果として突然生まれたものではなく、都市生活構造の変化に対応する中で、段階的に進行した実務的対応として理解することができる。
さらに重要なのは、この時点ではまだ「観葉植物文化」が明確な思想として存在していたわけではない点である。植物はあくまで、販売・装飾・空間演出・生活改善といった複数の実務領域の中で扱われていた。
しかし、その実務の積み重ねが、後年「観葉植物」と総称される文化領域の基盤形成へと接続していったと考えられる。
第Ⅰ章 参照
本章は、日本近代園芸史や都市化・流通史に関する一般的な知見を踏まえつつ、「植物の商品化」および「実務者を中心とした文化形成過程」という整理については、観葉植物ラボ独自の分析・考察を含む。当時の流通・商業化の実態については体系的に記録した公開一次資料の確認が現時点では困難であるため、本節における記述は、業界的に広く知られる状況の整理と観葉植物ラボによる実務的推論として位置づける。
Ⅱ. 大衆化を進めた人々
植物を「広く見せた」存在
【補助事例①|百貨店文化と屋上庭園・園芸売場の成立】
明治末から昭和期にかけて、三越・松坂屋・高島屋などの百貨店は、単なる商品販売の場にとどまらず、新しい都市生活様式を提示する空間として発展していった。
国立国会図書館の公開資料によれば、三越は明治40年(1907年)に百貨店業界で先駆けて屋上を緑化し、池や噴水、藤棚、花壇を配した洋風の庭園として一般客に公開した。こうした屋上空間は、都市で暮らす人々が日常的に植物と触れる場の一つとなり、植物が持つ視覚的・装飾的な価値を体感的に伝える役割を果たしていったと考えられる(注1)。同資料は、同時期に白木屋の屋上にも「盆栽陳列場」と呼ばれる展示スペースが設けられていたことを伝えている。
昭和期に入ると、百貨店の園芸売場や屋上庭園を企画・運営する担当者たちは、植物を専門愛好家だけの趣味ではなく、一般家庭の生活空間にも取り入れ得る存在として紹介・展示する機会が増えていったと考えられる。
ここで重要なのは、百貨店側の主目的が植物文化の振興そのものではなかった点である。実際には、集客や生活提案型販売といった百貨店経営上の目的とも関係していた可能性がある(注2)。しかしその過程で、売場担当者や装飾担当者は、植物の配置、組み合わせ、見せ方を継続的に調整・改善していった。
このような現場レベルの試行錯誤は、植物を単なる園芸対象ではなく、都市生活の中で視覚的快適性や空間演出を担う存在として浸透させる一因となった可能性がある。
当時の担当者たちが、自らの業務を「植物文化の大衆化」として認識していたとは限らない。しかし結果として、日常的な販売実務と空間演出の積み重ねが、植物を都市大衆の生活感覚へ接続する一定の役割を果たした可能性があると考えられる。
1. 博覧会・展示会に関わった人々
明治10年(1877年)の第1回内国勧業博覧会をはじめとする各種展示会は、植物を専門家や一部愛好家の領域から、一般来場者の視覚経験へと引き出す機能を担った。
第1回内国勧業博覧会では、鉱業及び冶金、製造物、美術、機械、農業、園芸の6区画が設けられ、産業振興政策の一環として展示が行われたことが確認できる(注3)。会期中の入場者数は454,168人(国立国会図書館資料による正確数)とされており、展示を通じて多くの市民が農業・園芸分野の産物に接する機会となった。
ここで注目すべきなのは、植物そのものだけではなく、それを展示・演出した実務担当者たちの存在である。彼らの主目的は、国家的な産業振興や技術紹介であり、後年の「観葉植物文化」を形成する意図があったわけではない。
しかし、園芸区画における植物の展示は、来場者に対して植物の視覚的価値や装飾的可能性を直感的に提示する役割を果たした可能性がある。産業奨励の文脈の中ではあるが、都市住民が植物を屋外の庭園以外の展示空間で体験的に鑑賞する機会の一つとなったと考えられる。
本ノートでは、このような展示空間を、植物の大衆的視覚経験を拡張した場の一つとして位置づける。
2. 百貨店関係者と都市文化
昭和初期にかけて、百貨店は商品販売だけではなく、都市生活そのものを演出・提案する空間へと変化していった。
その中で、屋上庭園、ショーウィンドウ、園芸売場、催事展示などを担当した実務者たちは、植物を「特別な園芸趣味」ではなく、「都市生活を構成する視覚要素」として扱うようになっていったと考えられる。
ここでも中心にあったのは、文化思想というより、販売促進や空間演出上の実務的判断である。どの植物が目を引くか、どの配置が購買行動につながるか、どの組み合わせが空間を豊かに見せるかといった調整が、日常業務として繰り返されていた。
その結果として、植物は一部愛好家だけの対象ではなく、一般家庭や都市生活の中にも取り入れ可能な装飾要素として認識されるようになっていった。
植物文化の大衆化は、理念によって一方向的に推進されたというよりも、商業空間における継続的な実務改善の中から、段階的に形成されていった側面が大きいと考えられる。
第Ⅱ章|注
注1
国立国会図書館「本の万華鏡 第27回 百貨店ある記」第3章「観て、食べて、遊んで」 (https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/27/3.html)
明治40年(1907年)の三越による屋上「空中庭園」開設(花壇・藤棚・池・噴水等を備えた洋風庭園)、および白木屋屋上庭園における「盆栽陳列場」設置など、近代百貨店における屋上空間の活用事例を国立国会図書館の公開資料で確認した。URLの実在および内容はウェブ取得により直接確認済み。
注2
飛田健彦 著『百貨店とは』(国書刊行会、2016年12月刊。ISBN: 978-4-336-06107-2)
著者は株式会社伊勢丹浦和店外商部長等を歴任した百貨店実務経験者(日本経営理念史研究所所長)。日本の百貨店が明治・大正・昭和を通じて庶民の生活文化・消費文化を牽引してきた歴史的経緯、および百貨店の文化的・社会的役割について整理された概説書。著者・出版社・ISBN・刊行年は出版社公式サイト(https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336061072/)にて確認済み。
注3
(1)国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ 第1回内国勧業博覧会の会場」 (https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatsumei/contents/01.html)
明治10年(1877年)開催の第1回内国勧業博覧会における会場構成・展示品・入場者数等について確認できる公的機関資料。本資料では入場者数を「約450,000人」と記載(概数表記)。URLの実在および内容はウェブ取得により確認済み。
(2)国立国会図書館「博覧会──近代技術の展示場 第1回内国勧業博覧会」 (https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/naikoku1.html)
内国勧業博覧会の開催背景および産業振興政策との関係について解説されている国立国会図書館の公開資料。入場者数454,168人(正確数)、出展品約84,000点、鉱業及び冶金・製造物・美術・機械・農業・園芸の6区画構成であることを記載。URLの実在および内容はウェブ取得により直接確認済み。
※注3(1)は入場者数を「約450,000人」(概数)、参照3(2)は「454,168人」(正確数)と記載しており、表記形式の差異はあるが数値の範囲は一致している。本文では注3(2)の正確数を採用した。
Ⅲ. インテリアへの転換点
空間を扱う人々の論理
【補助事例②|戦後オフィスと近代的空間演出】
戦後復興期から高度経済成長期にかけて、日本の官公庁、銀行、大企業のオフィスでは、欧米型の近代的オフィス空間が強く参照されるようになっていった。
機能性と合理性を重視したオフィス空間の中で、植物は無機質な印象を緩和し、空間に視覚的な柔らかさや快適性を与える要素として導入されていったと考えられる。また、当時の企業空間では、植物が「整備された空間」や「先進的なオフィス環境」を印象づける視覚要素として扱われる場面もあったと推察される。
この導入判断を担ったのは、植物研究者ではなく、施設管理者、総務担当者、建築設計者、内装設計者などの現場実務者であった。
彼らは限られた予算や維持条件の中で、どの植物が管理しやすいか、どの配置が空間と調和するか、どの程度の維持管理が可能かといった現実的課題に向き合っていた。そのため、植物は単なる装飾品ではなく、「維持可能な空間部材」として選択されていった側面があると考えられる。
本ノートでは、このような植物の位置づけを便宜上「維持可能な空間部材」と表現する。
当時、彼らが植物配置を「文化形成」として意識していた可能性は高くない。しかし結果として、植物はオフィスや商業空間におけるインテリア要素として定着していったと考えられる。
※なお、この時期の戦後オフィス空間における植物導入については、体系的に記録した公開一次資料の確認が現時点では困難であるため、本事例における記述は、業界的に広く知られる状況の整理と観葉植物ラボによる実務的推論として位置づける。
【補助事例③|レンタルグリーン事業の成立】
高度経済成長期以降、都市部ではオフィスや商業施設の増加に伴い、室内植物需要も拡大していった。
一方で、企業側には植物を継続的に維持管理する専門知識や人員が不足している場合も多く、植物管理を外部へ委託する需要が生まれていった。
レンタルグリーン事業の初期から事業展開した企業の一つとして、グリーンレンタル業界の草分け的存在として知られる国土緑化株式会社は、1977年(昭和52年)、東京都江戸川区松島の地でグリーンレンタル事業と造園事業を軸に事業を起こした。当時、観葉植物はホテルや大型商業施設などの装飾品として、また企業の受付・応接室などの来客スペースに置かれる存在であり、「貸し植木」と呼ばれる形で造園業や花店が業務の一つとして手がけていた。同社はこれを専業的なサービス業として再定義し、定期交換とメンテナンスを組み合わせたレンタルシステムを確立した(注4)。その後、フランチャイズ事業を開始し、加盟店展開を進めている。なお、フランチャイズ事業の開始年については、参照資料間で1987年と1988年の両表記が確認されており、現時点では一次資料による確定が困難なため、「1980年代後半」と位置づけるにとどめる。
これらの事業者や現場スタッフは、植物を長期的に美観維持するために、交換サイクル、設置条件、搬入管理、光環境への対応など、多くの実務ノウハウを蓄積していった。
ここで重視されていたのは、文化論ではなく、契約継続、品質維持、管理効率、顧客満足といった実務上の課題である。しかしその結果として、植物は「個人が所有する園芸対象」から、「空間へ提供される管理サービス」へと性格を変化させていった。
本ノートでは、植物そのものではなく、維持管理を含めて提供される仕組みへの転換という意味で、この変化を便宜上「植物のサービス化」と位置づける。
また、レンタルグリーンの普及によって、植物は個人住宅だけではなく、オフィス、商業施設、公共空間など、より広範な空間へ導入されるようになっていった。
当時の事業者たちが、それを植物文化の転換点として自覚していたとは限らない。しかし、維持管理を含めた実務システムの整備が、結果として現代的な業務用装飾グリーン市場の基盤形成へとつながっていったと考えられる。
第Ⅲ章|注
注4
(1)「日本が誇る伝統と挑戦の革新企業」国土緑化株式会社インタビュー記事 (https://dentou-chousen.jp/company/1663/)
創業年(1977年)、事業内容(グリーンレンタル事業・造園事業等)について記述する第三者取材記事。URLの実在および内容はウェブ取得により直接確認済み。
(2)グリーンポケット公式サイト「本部情報」(https://green-pocket.biz/company.html)
国土緑化株式会社の会社沿革を掲載。1977年の設立(東京都江戸川区松島にてグリーンレンタル事業・造園事業を主たる業務として設立)を確認した。
※フランチャイズ事業の開始年については、参照4(1)(dentou-chousen.jp)は「1988年」、参照4(2)(green-pocket.biz)は「1988年」と記載している一方、アントレ掲載情報(https://entrenet.jp/dplan/0001413/)では「1987年3月〜」の加盟店実績が確認されるなど、資料間で差異がある。これらは公式サイト・第三者資料とも一次資料とは言えない性格のものであり、現時点では年次を確定的に特定することが困難なため、本文では「1980年代後半」と表記するにとどめた。
Ⅳ. そうなるべくしてなった背景と転換の社会的背景
本研究ノートで検討してきた商業化・大衆化・インテリア化の過程は、特定の思想家や政策のみを起点として生じたものではなく、それぞれの時代における社会構造や生活環境の変化に対して、多様な立場の実務者たちが対応を重ねた結果として形成されていったものと考えられる。
植物を扱う人々の立場や目的は一様ではなかった。流通のために植物を整理した人々、販売や展示のために植物を演出した人々、室内空間へ適応させるために植物を配置した人々、それぞれが向き合っていた課題も異なっていた。
ある者は流通効率や販売性を重視し、ある者は集客や視覚演出を意識し、またある者は維持管理や空間快適性といった実務上の問題へ対応していた。
しかし結果として、これらの活動は互いに連続しながら、「植物を室内や都市空間の中で利用・鑑賞する文化」の形成へ接続していったと考えられる。
ここで重要なのは、各段階が明確に切り分けられていたわけではないという点である。
植物の商品化が進んだことで、都市生活者が植物へ接触する機会は増加した。展示技術や販売演出が発達したことで、植物は単なる栽培対象から、視覚的・装飾的要素として扱われるようになっていった。そして維持管理技術やレンタルサービスの整備によって、植物は個人所有だけでなく、業務空間へ継続導入される存在へ変化していった。
本ノートでは、この一連の変化を、「観葉植物文化」が単独の理念から突然成立したのではなく、流通・販売・展示・空間利用・維持管理といった複数の実務領域が重なり合う中で、段階的に形成されていった過程として位置づける。
また、この変化は園芸分野だけに閉じたものではなく、都市化、百貨店文化、オフィス空間、消費社会、サービス産業など、近代以降の社会変化とも相互に関連しながら進行したものと考えられる。
つまり、観葉植物や装飾グリーンの歴史とは、単なる植物史としてだけではなく、「植物をどのように都市空間や生活空間へ組み込むようになったのか」という空間利用史・生活文化史としても読み解くことができる。
なお、本章において日本の製造業やサービス業における現場改善・継続的調整との共通性に言及しているが、これは特定の文献的根拠に基づく検証ではなく、観葉植物ラボ独自の試論的観察として位置づける。
まとめ
本研究ノート004では、日本における植物文化の商業化・大衆化・インテリア化について、それぞれを独立した出来事としてではなく、連続した実務過程として整理してきた。
本ノートを通して確認できるのは、植物文化の変化が、理念や思想のみから形成されたわけではなく、流通、販売、展示、維持管理、空間設計といった日常的実務の積み重ねによって支えられていたという点である。
明治以降の種苗商や園芸業者は、植物を安定的に供給するため、名称整理、商品化、流通整備を進めた。百貨店や展示空間の担当者たちは、植物を視覚的・生活的要素として都市空間へ提示していった。さらに戦後には、施設管理者やレンタルグリーン事業者が、植物を継続維持可能な空間部材・管理サービスとして扱う仕組みを整備していった。
彼らの多くは、「植物文化を形成する」という理念を前面に掲げていたわけではない。むしろ、販売効率、維持管理、空間快適性、顧客対応といった現実的課題に対応していたと考えられる。
しかし、そのような実務上の改善や調整の積み重ねが、結果として植物を都市生活の中へ定着させていく基盤になっていったと考えられる。
すなわち、日本における観葉植物文化は、完成された思想体系として最初から存在していたというより、流通、販売、展示、維持管理、空間演出などの複数領域が重なり合う中で、段階的に形成されていった文化領域として捉えることができる。
また、本研究ノートを通して見えてくるのは、観葉植物や装飾グリーンが、単なる趣味園芸ではなく、「都市空間をどのように快適化し、視覚的に調整し、人間環境へ組み込むか」という空間利用の問題とも深く関係していたという点である。
植物は庭園の中だけに存在するものではなく、百貨店、展示会、オフィス、商業施設など、近代以降の都市空間へ徐々に取り込まれていった。その背景には、植物を維持し、交換し、演出し、管理するための実務システムの存在があったと考えられる。
本ノートでは、このような無数の実務の蓄積が、後年「観葉植物文化」と呼ばれる領域を下支えする一因となったものと位置づける。
そしてこの視点は、現代における業務用装飾グリーン、人工樹木、フェイクグリーン、環境演出型デザインなどを考察する際にも、重要な前提となると考えられる。
文化とは、単独の思想や理念だけによって成立するものではなく、多数の実務、維持管理、空間調整、継続的改善の積み重ねの中から、結果として社会へ定着していく側面を持つ。
観葉植物の歴史は、その過程を示す具体的事例の一つとして読み解くことができる。
次章(005)への予告
盆栽・床の間・鉢植え文化との連続
近代以降、都市化と産業化の中で定着していった観葉植物文化を踏まえ、次章では視点をさらに遡り、日本における観賞用植物文化の基層について検討していく。
日本の植物鑑賞文化は、単なる園芸技術の発展だけではなく、自然の風景や季節感を限られた空間の中へ取り込み、室内で鑑賞するという空間感覚とも深く関係してきたと考えられる。
その背景には、床の間を中心とした室内装飾文化や、鉢植え・盆栽を通じて自然景観を縮景化する美意識の蓄積が存在していた。
こうした文化は、江戸期に武家・町人層へ広がる中で、多様な園芸文化として成熟していった。また、その流れは近代以降、埼玉・安行、愛知・稲沢、大阪・池田、福岡・田主丸などの植木産地形成や、大宮盆栽村、香川・鬼無・国分寺の松盆栽などに代表される高度な栽培・造形技術の継承にも接続していった。
研究ノート005では、床の間文化、鉢植え文化、盆栽文化が、どのように近代園芸産業や現代の室内緑化・ランドスケープ分野へ連続していったのかを、文化史・産地史・空間利用史の視点から整理・検討していく。

