観葉植物ラボ
研究ノート第一巻|003 日本の植物文化を形づくった人物たち(上)

人・文化・空間・視覚から読み解く、装飾グリーンという問い

研究ノート003|日本の植物文化を形づくった人物たち(上)

博物学・園芸・殖産興業の時代

はじめに——「観葉植物」という言葉の定義と日本での文脈

今日、日本で「観葉植物」という言葉が指すのは、主に熱帯・亜熱帯原産の植物を室内空間で鑑賞する文化である。リビングやオフィス、商業施設に配置され、癒し・装飾・環境演出の役割を担う存在として認識されている。

ただし、本稿を読み始める前に一点確認しておきたい。「観葉植物」という言葉と、現在の意味での定義は後年になってから作られたものであり、本稿で主に扱う江戸・明治・大正期には、この語も概念も現在の意味では存在していなかった。当時の人々が「観葉植物」として植物を意識していたわけではない。したがって本稿では、観葉植物という語を用いる際には「現在私たちが観葉植物と呼ぶ文化・植物群へとつながる、当時の植物鑑賞・植物導入の流れ」という意味で使用する。また当時の文脈においては、花卉・樹木を含む「園芸植物」「鉢物」全般を広く視野に入れて論じる必要がある。

「観葉植物」という概念が現在の意味で一般に定着した時期については、本ラボではまだ正確な調査を行えていない。

本ラボでは、日本の植物鑑賞文化は日本固有の美意識だけで完結していたわけではなく、海外からの植物導入史と日本に古くから存在した植物鑑賞文化が融合・変質していくプロセスがあった、という仮説を出発点とする。盆栽や万年青、立花や茶花に代表される日本独自の植物観と、西洋由来の温室植物・鉢物文化が交差し、20世紀中盤以降に「観葉植物」という概念が定着していったとみられる。

本研究ノートでは、「誰が」「いつ」「どのように」植物を日本へ持ち込み、鑑賞対象として位置づけていったのかを、人物を軸に整理する。特に本稿では、博物学・園芸・殖産興業という三つの視点から、近代以前〜近代初期における植物文化の形成段階を扱う。

【第Ⅰ章|起源と文化】江戸時代以前の植物鑑賞文化

1. 古くからの「植物を鑑賞する」文化

日本には、観葉植物という言葉が生まれる遥か以前から、植物を「鑑賞対象」として扱う文化が存在していた。

平安時代の貴族文化においては、四季の移ろいを和歌や庭園で表現する感性が育まれていた。実際、当時の庭園では雪・月・花を契機とした私的行事や遊び(雪まろばし、月見の宴、花見と散策など)が行われていたことが王朝文学の研究から確認されている(注Ⅰ-1)。こうした記録から、当時の庭園における植物は単なる景観構成要素にとどまらず、季節や行事と結びついた鑑賞対象であったと本ラボでは捉えている。

室町時代になると、寝殿造から書院造へと住宅様式が変化するなかで、「床の間」という室内の鑑賞空間が成立していった。その起源については諸説あり(押板起源説・会所起源説・仏壇起源説など)、現在も定説は一つではないが、掛軸・香炉・花が組み合わされることで「限定された室内空間に植物や美術品を飾る」様式が整えられていったことは、建築史・文化史の研究によって広く認識されている事実である(注Ⅰ-2)。禅宗は同時代に水墨画や掛軸文化の普及に大きく寄与しており、床の間という空間の意匠形成とも間接的に関わっていたとされる。ここで重要なのは、植物が自然の縮景として切り取られ、室内に持ち込まれた点である。この流れは、後の盆栽・万年青・立花文化へと連なり、「小さな空間で植物をどう見せるか」という視覚設計思想の一基盤となっていったと考えられる。

2. 盆栽・万年青にみる「管理と鑑賞」の思想

盆栽は中国の「盆景」を起源とし、平安〜鎌倉期に日本へ渡来したという説が園芸史の分野で広く語られている(注Ⅰ-3)。ただし本ラボでは特定の一次資料を確認できていないため、渡来時期を含め確定的な事実としてではなく仮説として扱う。その後、自然の樹木を鉢という人工的な制限環境で育て、剪定や針金掛けなどの技法によって形を制御する日本独自の文化として発展したとみられ、自然をそのまま持ち込むのではなく理想化・抽象化するという思想を内包していると考えられる。

万年青(オモト)は日本に自生するスズラン科の多年草であり、室町時代にはすでに生け花の花材として用いられていた記録がある。江戸時代には大名・旗本の間でブームを迎え、徐々に町民にも広まった。18世紀末の寛政年間には投機的な熱狂が生じ、希少品種には現在の価値で数千万円から1億円相当とも言われる高値がついたとされる(現代価値換算の正確性については断定を避ける)。品種は現在1,000種以上を数えるとされる(注Ⅰ-4)。

これらに共通するのは以下の思想である。植物は「育てるもの」であると同時に「鑑賞されるもの」であること、管理・手入れの技術そのものが価値になること、自然よりも「人の関与」が前提とされていること、の三点である。

この価値観は、後に海外から新しい植物が流入した際、日本的に受容・再構築されるための文化的土台の一つとなっていったと考えられる。

第Ⅰ章|注

注Ⅰ-1
河原武敏(東京農業大学造園学科)「王朝文学に見る平安時代の庭園生活に関する研究(I)——庭園での雪・月・花を契機とする私的行事と庭上の遊びについて」日本庭園学会誌、1993年第1号、pp.6-16(J-STAGE:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgarden1993/1993/1/1993_1_6/_article/-char/ja/)。著者所属・掲載誌・頁数はJ-STAGEの論文情報ページで確認済み。なお著者の河原武敏は1996年に同大学教授に就任しており、1993年論文発行時の所属は造園学科助教授であったが、本ノートでは大学所属の確認にとどめ職位の詳細表記は省略する。

注Ⅰ-2
床の間の起源に関する諸説(押板起源説・会所起源説・仏壇起源説等)については、現時点で学術的な定説は確立されていない。本ノートでは複数の建築史・文化史研究において同様の見解が共有されている事実として記述するにとどめ、特定の一次学術文献を参照先として挙げることを避けた。

注Ⅰ-3
盆栽の中国「盆景」起源・日本渡来時期(平安〜鎌倉期)については、国立国会図書館デジタルコレクション内の複数の園芸史資料で類似の記述が見られるが、いずれも特定の一次学術文献に基づくものではなく、本ラボとして出典を一意に特定できていない。そのため本稿では確定した史実ではなく仮説として扱う。

注Ⅰ-4
宝生園(愛知県岡崎市)「万年青とは」(https://www.housyouen.jp/outline/index.html)。万年青が室町時代に生け花の花材として用いられていたこと、江戸時代に大名・旗本の間でブームを迎え徐々に町民にも広まったこと、18世紀末の寛政年間に現在の価値で数千万円から1億円相当とされる高値がついたこと、現在1,000種以上の品種が(公社)日本おもと協会に登録されていることを記述する万年青専門栽培業者による資料。現代価値換算の正確性については断定を避ける。あわせて豊明園「おもとについて」(https://houmeien.co.jp/omoto.sub2.html)も同様の記述を含む。

【第Ⅱ章|江戸の園芸と博物学】江戸時代の園芸熱と博物学的関心

1. 江戸園芸文化の成熟

江戸時代に入ると、都市の発展と町人文化の成熟により、園芸は一部の特権階級のものから庶民の嗜みへと広がっていった。時代の前半はツバキ・ウメ・ツツジなどの樹木を中心とした園芸が主流であったが、江戸時代後期にかけて朝顔・菊・桜草・オモトなどの草類による品種改良が盛んになっていったとされる(注Ⅱ-1)。珍品を競う文化や、図譜・番付が流通するなど、植物は情報商品としても扱われるようになった(注Ⅱ-1)。この時代の園芸は、まだ「観葉植物」とは呼ばれないものの、鉢植えで楽しむ・室内や軒先で鑑賞する・葉や花の形状そのものを価値とするという点において後年の植物鑑賞文化と連続性を持っている。

2. 本草学と博物学——植物を「分類する視点」へ

江戸中期以降、本草学の発展により、植物は単なる鑑賞対象や薬効追究にとどまらず、研究・記録・分類の対象となっていった。

代表的な人物として挙げられるのが貝原益軒(1630–1714)である。益軒は宝永6年(1709年)に刊行した『大和本草』において、動物・植物・鉱物など1,362種を収載し、中国の『本草綱目』への批判的研究と自らの長年の実地観察をもとに、名称・来歴・形状・産地・効能を和文で体系的に記述した。これは当時の日本において著された本格的な国産本草書のうち代表的なものとして位置づけられており、単なる薬学書にとどまらず、自然を観察し言語化・記録する態度を日本社会に根づかせた点で重要な意義を持つ(注Ⅱ-2)。

また平賀源内(1728–1780)は、博物学・蘭学・殖産興業を横断する活動を行っており、その業績から本ラボでは、植物を資源・商品・文化という三つの側面で捉えていた人物として位置づけている。源内が提唱し、師の田村藍水(らんすい、通称元雄、1718–1776)とともに江戸湯島で開催した薬品会(東都薬品会)は、宝暦7年(1757年)の第1回から宝暦12年(1762年)の第5回まで計5回にわたり行われた、薬用動植物・鉱物を全国から集めて展示する催しであり、後の博覧会文化の萌芽の一つとして研究者に言及されている。源内は宝暦13年(1763年)、これらの薬品会の出品物の中から約360種を選んで解説した『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を刊行した(注Ⅱ-3)。この時代を通じて、植物は「自然物」「鑑賞物」「研究対象」「経済資源」という多層的な意味を帯び始めていた。

第Ⅱ章|注

注Ⅱ-1
国立国会図書館デジタル展示「描かれた動物・植物——江戸時代の博物誌——第二章 独自の園芸の展開」(https://ndlsearch.ndl.go.jp/gallery/nature/21)。江戸時代の園芸文化の発展、品種改良の実態、図譜・番付の流通について記述する公的資料。本ノートではこれらの趣旨を参照した。

注Ⅱ-2
中村学園大学図書館「貝原益軒アーカイブ 大和本草」(https://www.nakamura-u.ac.jp/institute/media/library/kaibara/archive01.html)。『大和本草』の刊行(宝永6年・1709年)、収載品目数(1,362種)について確認した。なお「成立(著作完成)」年については中村学園大学資料では宝永6年刊行のみ記載されており、一般的に「宝永5年(1708年)成立、宝永6年(1709年)刊行」とする資料(山川日本史小辞典等)もあるが、本ノートでは確認できた刊行年(宝永6年・1709年)のみを記述するにとどめる。あわせて九州大学学術情報リポジトリ収録の古賀京子(九州大学医学図書館)「貝原益軒『大和本草』」(https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/6796174/03_p29_koga.pdf)を参照した。

注Ⅱ-3
文化遺産オンライン「物類品隲」(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/501607、東京国立博物館所蔵)。「平賀源内の提唱により、師の田村藍水が江戸湯島で開催した宝暦7年から同12年までの薬品会の出品物の中から360種類を選び、学術的な解説を加えた本草・物産学書」であることを確認した。あわせて東京都立図書館デジタルアーカイブ「物類品隲」解説(https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/collection/features/digital_showcase/034/02/)、西尾市岩瀬文庫「物類品隲」解説(https://iwasebunko.jp/stock/collection/entry-233.html)を参照した。刊行年(宝暦13年=1763年)については東京都立図書館デジタルアーカイブおよびコトバンク(https://kotobank.jp/word/物類品隲-1201785)にて確認。田村藍水の生没年(1718–1776)および通称「元雄」についてはコトバンク「田村藍水」(ブリタニカ国際大百科事典収録)にて確認した。あわせて石上敏(大阪商業大学経済学部教授)「近代日本黎明期の博覧会——平賀源内の物産会との関わりを中心に——」大阪商業大学商経学会(2019年)を参照した。

【第Ⅲ章|開国と近代化】植物導入の転換点

1. 明治初期の急激な外来植物流入

明治維新以降、日本は急速に西洋文明を取り入れた。植物・園芸分野も例外ではなく、当初は日本在留外国人向けに、外国人商人を通じて洋蘭や球根が持ち込まれたことが記録されている(注Ⅲ-3)。こうした流入の担い手には外交使節や外国人技術者(お雇い外国人)も含まれていたと考えられるが、その具体的な経路や規模について本ラボは一次資料を確認できておらず、この点は仮説にとどめる。この時代に入ってきた植物には、温室栽培を前提とした熱帯植物や、西洋園芸の枠組みの中ですでに鑑賞価値が確立していた品種が含まれていたとみられ、日本の従来の屋外主体の園芸とは性質を異にしていた可能性がある。こうした植物の一部が当初から「室内鑑賞」や温室での展示を前提としていたとすれば、これが後年の観葉植物的な使われ方の遠因の一つになった可能性があると本ラボでは考えている。

2. 植物園・博覧会と国家プロジェクト

近代日本において、植物文化の導入と整理を担ったのは個人の愛好家だけではない。国家主導の植物園整備や内国勧業博覧会が大きな役割を果たした。

1684年(貞享元年)に幕府が小石川へ移転して設けた小石川御薬園を前身とする小石川植物園は、明治10年(1877年)に東京大学の附属植物園となった。単なる研究施設にとどまらず、外来植物を国内で適応させ、管理し、展示する拠点として機能した(注Ⅲ-1)。本ラボでは、ここで植物が近代的な学問体系のもとで「知識化」「制度化」されていったプロセスの一つの拠点であったと捉えている。また、1877年(明治10年)を第1回として計5回(明治36年まで)開催された内国勧業博覧会には「農業」と「園芸」の区画がそれぞれ設けられ(注Ⅲ-2)、植物は近代国家の産業発展を示す展示物の一つとして扱われた。第1回の出品物は84,000点余りを数え、広く一般の人々の視線にさらされたこの経験は、「植物を空間に配置して見せる」という近代的視覚感覚が社会に浸透していく一つの契機となったと考えられる(注Ⅲ-2)。

第Ⅲ章|注

注Ⅲ-1
小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)公式サイト「小石川植物園について」(https://koishikawa-bg.jp/overview/)。なお起源については、1638年設置の麻布御薬園を1684年(貞享元年)に小石川へ移転したものとされており、本ノートでは移転・改称年の1684年を小石川御薬園の設置年として記述した(コトバンク「小石川薬園」https://kotobank.jp/word/小石川薬園-61269 にても確認)。明治10年(1877年)の東京大学附属植物園への改称については同公式サイトおよび文京区公式サイト(https://www.city.bunkyo.lg.jp/b014/p003748.html)にて確認した。

注Ⅲ-2
国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ 第一部 内国勧業博覧会」(https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatsumei/contents/category01.html)。内国勧業博覧会が明治10年(1877年)から明治36年(1903年)までの間に計5回開催されたことを確認。第1回の出品点数「84,000点余り」については同資料内「第一回内国勧業博覧会の会場」(https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatsumei/contents/01.html)にて確認。あわせて国立国会図書館電子展示会「博覧会——近代技術の展示場」内「第1回内国勧業博覧会」(https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/naikoku1.html)を参照した。

注Ⅲ-3
新潟県立植物園「にいがた花物語 history 3 明治から大正時代の園芸」(https://botanical.greenery-niigata.or.jp/hanamonogatari/history3.html)。明治初期、当初は外国人商人によって日本在留外国人向けに洋蘭や球根が輸入されたこと、明治20年代末以降は国内種苗商による日本人向け輸入が本格化したことを確認した。ただし外交使節やお雇い外国人による植物導入の具体的経路については、本ラボとして一次資料を確認できていない。

【第Ⅳ章|殖産興業としての園芸】観葉植物前夜

1. 園芸の産業化と職業園芸家の登場

明治後期から大正期にかけて、園芸は趣味や学問の領域から明確な「産業」へと移行していった。1890年(明治23年)に創業し翌1891年(明治24年)6月1日に株式会社として設立された「横浜植木株式会社(旧称・横浜植木商会)」は、欧米の園芸種苗の輸入と日本の園芸植物の輸出を日本人の手で本格化させた、日本近代園芸会社の草分けの一つとして知られる(注Ⅳ-1)。この時点でもまだ「観葉植物」という言葉は一般的ではないが、常緑植物や斑入り植物など「葉を主役にした植物」、花期に依存しない通年の鑑賞性、室内・洋館・公共建築での使用という要素が徐々に揃い始めていた。

2. 西洋建築と室内緑化の萌芽

官庁、銀行、ホテル、貴族や実業家の邸宅(洋館)といった西洋建築が増えるにつれ、日本人は新たな空間課題に直面した。それが「広い室内空間や洋風の居室をどう装飾するか」という課題である。こうした西洋建築の普及(注Ⅳ-2)を背景に、本ラボでは、植物が従来の床の間の生け花とは異なる、絵画や家具と並ぶ「空間演出(インテリア)の要素」として再定義されていく条件が整えられていった可能性があると考えている。

19世紀のヴィクトリア朝イギリスでは、ガラス建築技術の発達とともに大規模な温室文化が発達し、ヤシ類などの熱帯植物が栽培・展示されるようになったことが確認されている(注Ⅳ-4)。ただし、ゴムノキやドラセナなどが一般家庭の室内にまで置かれる文化として確立していたかという点については、本ラボは一次資料を確認できておらず、この点は仮説にとどめる。明治以降の日本への洋種植物の流入と西洋建築の普及がこうした欧米の文化的潮流と何らかの形で交差していた可能性はあるが、具体的な影響関係についても現時点では仮説として扱う。

ただし、一般家庭における観葉植物の本格的な普及は昭和30年代以降の高度成長期に始まるものとみられており、この時期はあくまでもその前史にあたる(注Ⅳ-3)。

第Ⅳ章|注

注Ⅳ-1
横浜植木株式会社公式サイト「Since 1891 横浜植木の歩み」(https://www.yokohamaueki.co.jp/corporate/130/index.html)。同社公式サイトでは株式会社としての設立年を1891年6月1日としている。創業年(1890年)については複数の外部資料が一致して記述しており、本ノートでは「1890年創業、1891年6月1日株式会社設立」と記述した。

注Ⅳ-2
国立国会図書館「本の万華鏡 第16回 日本近代建築の夜明け——建築設計競技を中心に——」(https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/16/)。明治期に日本で西洋式建築が普及していった経緯と、その社会的・文化的背景について記述する公的資料。

注Ⅳ-3
日本での観葉植物の一般普及が昭和30年代以降の高度成長期に始まるという点については、複数の園芸史関連文献が同様の時期を示しているが、本ラボで直接確認した一次学術文献にとどまらない部分も含む。この時期区分は現時点では広く共有された認識として記述するにとどめる。

注Ⅳ-4
新妻昭夫(恵泉女学園大学人間環境学科)「英国の温室の歴史と椰子のイメージ」(https://www.keisen.ac.jp/extension/research/gardening/pdf/e1_niiduma.pdf)。19世紀イギリスにおけるガラス温室建築の発達と、キュー植物園パームハウスをはじめとするヤシ類の温室栽培文化について確認した。ただし家庭内での観葉植物利用の広がりについては本論文の範囲外であり、本ラボとして別途の確認ができていない。

まとめ——観葉植物は「突然生まれた文化」ではない

本研究ノートで確認したように、日本の観葉植物文化(室内で植物の葉や姿を鑑賞する文化)は、戦後や近年になって突然流行したトレンドではない。その背景には、古来の植物鑑賞思想(床の間、盆栽、万年青などにおける空間設計)、江戸園芸の成熟(鉢植え文化の大衆化と情報化)、博物学・本草学的視点(植物を分類・観察する知識基盤)、近代国家の殖産興業(植物園や博覧会による制度化)、西洋建築の流入と室内空間の変化(洋風装飾としてのグリーンの必要性)という複数の歴史的・文化的レイヤーが重なり合って形成された背景がある。

観葉植物は、単なる一過性の輸入文化でも現代の装飾トレンドでもない。それは、日本人が長い歴史の中で「自然をどう扱い、室内のどこに置き、どのように見るか」を問い続け、近代的な建築空間と出会った結果として生み出された、文化的な回答の一形態であると考えられる。

人・文化・空間・視覚から読み解く、装飾グリーンという問い

博物学・園芸・殖産興業の時代

日本の植物文化(のちの観葉植物文化の地盤)は、市場や流行から自然発生したものではない。西洋植物学という異質な知識体系、日本固有の園芸・鑑賞思想、そして国家主導の近代化と殖産興業政策を「翻訳・接続・制度化」した人物たちによって、段階的に地盤が作られた。ここでは、後年に「観葉植物」と呼ばれるジャンルが成立するための学術的・社会的・技術的土台を築いた近代初期の人物たちに焦点を当てる。

なお、各人物への評価(現代への影響度の星評価など)はすべて観葉植物ラボによる独自の解釈・分析であり、学術的な定説ではない。

Ⅰ. 伊藤圭介(1803–1901)|導入期——西洋植物学の入口を開いた人物

尾張(名古屋)出身の本草学者・医師。文政10年(1827年)に長崎に赴きシーボルト(Philipp Franz von Siebold)のもとで植物学を学んだ。長崎滞在中にシーボルトよりツンベルク(C. P. Thunberg)著『フロラ・ヤポニカ(Flora Japonica)』(日本植物誌、1784年刊)を受け取り、これをもとに文政12年(1829年)、『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』を刊行した。これは、リンネの植物分類法を日本に紹介した著作の一つとされる。また「おしべ(雄蕊)」「めしべ(雌蕊)」「花粉」といった現在も使われる日本語の植物用語を作ったのも伊藤圭介とされている(参照人物Ⅰ-1・Ⅰ-2)。

明治10年(1877年)に東京大学員外教授に就任し、明治14年(1881年)には教授となった。明治21年(1888年)には日本初の理学博士の一人として学位を授与された。明治34年(1901年)1月没。享年99歳。

植物を「実用(薬効)」や「単なる愛玩」の視点から、「科学的に分類し、記録し、体系化するもの」へと認識転換させる契機を作った人物とされる。外来の未知の植物を研究・管理可能な対象として受け入れるための思想的土台の形成に寄与したと考えられる。

当時の評価:学者層や先駆的知識人から高評価を得たが、一般社会における知名度は限定的であった。

現代への影響度:★★★★★

伊藤圭介 参照

参照人物Ⅰ-1
国立国会図書館「近代日本人の肖像」伊藤圭介の項(https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/233)。生没年(1803年2月18日〜1901年1月没)・主要業績について確認。なお「員外教授就任(1877年)・教授就任(1881年)」については、国立国会図書館デジタルコレクション「伊藤文庫解説」(https://www.ndl.go.jp/nature/colle/colle_1.html)にて「明治10年(1877年)には東京大学員外教授、14年(1881年)に教授となり」と確認した。

参照人物Ⅰ-2
国立公文書館デジタルアーカイブ「西洋植物学の伝来」(https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hana/contents/11.html)。リンネの植物分類法を日本に紹介した著作の一つとされる『泰西本草名疏』についての記述を確認。「おしべ」「めしべ」「花粉」などの植物用語を伊藤圭介が作ったことについては、東山動植物園「伊藤圭介記念室について」(https://www.higashiyama.city.nagoya.jp/05_plant/05_05shisetsu/ito_keisuke.html)および名古屋市熱田区公式サイト「宮宿・シーボルトと伊藤圭介」(https://www.city.nagoya.jp/atsuta/page/0000027786.html)を参照した。

Ⅱ. 松村任三(1856–1928)|制度期——分類・教育・体系化を担った中核人物

常陸国多賀郡下手綱村(現・茨城県高萩市)出身の植物学者。大学南校(後に東京開成学校、現・東京大学の前身)で法律を学んだが中退し、明治10年(1877年)に東京大学小石川植物園に就職、矢田部良吉教授に師事して植物学を学んだ。明治18年(1885年)末にドイツへ出発し、ヴュルツブルク大学・ハイデルベルク大学で植物分類学を修め、明治21年(1888年)に帰国。帰国後の明治23年(1890年)に東京帝国大学理学部植物学科教授に就任。明治30年(1897年)には小石川植物園の初代園長となった。ソメイヨシノやワサビを含む150種以上の植物に学名を付けたとされ、著書に『日本植物名彙』(1884年)がある。なお松村は牧野富太郎を植物学教室に受け入れた一方、後に対立関係に発展したことも記録されている(参照人物Ⅱ)。

東京帝国大学で植物学の教育・研究体制を確立し、植物の学名や和名の統一・目録の作成など「標準化」を推し進めた。これにより、海外から流入する多様な植物が一過性の珍品から「管理可能な知識資源・商品資源」として扱われる条件が整えられていったと考えられる。

当時の評価:帝国大学の教授として学界・官界では権威ある存在として評価されたが、一般市民層にとっては遠い存在であった。

現代への影響度:★★★★☆

松村任三 参照

参照人物Ⅱ
高萩市教育委員会「松村任三」(https://www.city.takahagi.ibaraki.jp/edu/shougaigakushuka/geijutsu_bunka/kyoudo/page002921.html)。生没年(1856年2月14日〜1928年5月4日)・小石川植物園就職(1877年)・助教授就任(1883年)・『日本植物名彙』刊行(1884年)・ドイツ出発(1885年末)・理学博士取得(1891年)・初代園長就任(1897年)を確認。あわせて高萩市公式ホームページ(https://www.city.takahagi.ibaraki.jp/page/page002921.html)にて、ソメイヨシノ(Prunus yedoensis Matum.)・ワサビ(Wasabi japonica Matum.)を含む150種以上の植物への命名を確認した。なお帰国年(1888年)・東京帝国大学理学部植物学科教授就任年(1890年)については、コトバンク「松村任三」(朝日日本歴史人物事典収録、https://kotobank.jp/word/松村任三-136754。「明治23年に帝大(東大)教授となって」と記述)にて確認した。

Ⅲ. 牧野富太郎(1862–1957)|展開期——探索・普及・図鑑による橋渡し役

高知県佐川町出身。正式な学歴を持たないまま上京し、明治17年(1884年)から東京大学植物学教室への出入りを許された。生涯にわたり膨大な数の植物標本を収集し、新種約1,000種・新変種約1,500種、合わせて2,500種以上の植物を命名したとされる(注は参照人物Ⅲに追加)。植物図鑑の編纂、一般向け著作の執筆、全国での植物採集会の開催を通じて、植物の知識を広く普及させた。明治45年(1912年)に東京帝国大学理科大学講師となり、昭和14年(1939年)に辞任。昭和32年(1957年)に94歳で没し、没後に文化勲章が授与された(参照人物Ⅲ)。

学者でありながら教育者・啓蒙家としても活動した。市民に「身の回りの植物の名前がわかる」「その由来や特徴を語ることができる」「個々の植物を種として認識できる」という理解の回路を社会全体に広げた。これにより、植物が「一塊の緑の装飾」としてではなく、「それぞれの個性を理解し、意味をもって選んで育てる存在」として認識される文化的素地が形成されていったと考えられる。

当時の評価:学界(アカデミズム)内部では独自の活動スタイルゆえに賛否両論があったが、一般市民や愛好家からの人気と知名度は高かった。

現代への影響度:★★★★★

牧野富太郎 参照

参照人物Ⅲ 練馬区立牧野記念庭園公式サイト「牧野富太郎について」(https://www.makinoteien.jp/makino/)。明治45年(1912年)の東京帝国大学理科大学講師就任・昭和14年(1939年)辞任・昭和32年(1957年)1月18日没・没後の文化勲章授与について確認。あわせて東京都立大学牧野標本館公式サイト(https://biol.fpark.tmu.ac.jp/herbarium/)および国立国会図書館「近代日本人の肖像」牧野富太郎の項(https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/328/)にて主要業績を確認した。

なお命名した植物の種数(新種約1,000種・新変種約1,500種)については、練馬区公式ホームページ「牧野記念庭園」(https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/bunkazai/b051.html)にて確認した。

Ⅳ. 三好学(1862–1939)|拡張期——生態学・環境視点の導入

美濃国岩村藩士の次子として同藩江戸藩邸(現・東京都)に生まれた植物学者。出生後は岩村で幼年期を過ごした。旧暦では文久元年(1861年)12月5日、新暦換算では1862年1月4日生まれであり、生年の表記は文献により1861年・1862年の両説が混在する(旧暦・新暦換算の差による)。明治22年(1889年)に東京帝国大学理科大学植物学科を特待生として卒業し、大学院進学後の明治24年(1891年)からドイツ(ライプツィヒ大学)へ留学。帰国後、明治28年(1895年)に帝国大学植物学教授に就任した(参照人物Ⅳ)。

植物生態学の概念を日本に紹介し、「植物生態学」という学問領域および「生態学」という訳語の形成に寄与したとされる。植物を単に分類するだけでなく「どのような環境(光、湿度、温度、土壌)で生きているか」を科学的に分析する視点を確立した。桜とハナショウブ(花菖蒲)の研究で知られ「桜博士」とも呼ばれた。天然記念物の概念を日本に広めた先駆者の一人でもあり、その保存立法化に尽力した。大正9年(1920年)に帝国学士院会員となった。

植物は単体で存在するのではなく、環境・光・湿度・他種との関係で成立するという生態学的視点は、のちに「熱帯・亜熱帯原産の植物を本来の生育環境とは異なる室内環境でどのように維持・育成するか」「特定の建築空間にどの植物を配置すべきか」という、現代の観葉植物の育成管理論と空間設計論の科学的源流の一つとして位置づけることができると考えられる。

当時の評価:東京帝国大学教授として専門家や行政向けの評価が中心であり、一般社会への直接的な思想の浸透は限定的であった。

現代への影響度:★★★★☆

三好学 参照

参照人物Ⅳ
国立国会図書館「近代日本人の肖像」三好学の項(https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6345/)。生没年・東大植物学科卒業(1889年)・ドイツ留学(1891年)・帝国大学教授就任(1895年)・帝国学士院会員(1920年)について公的機関資料で確認。あわせてコトバンク「三好学」(ブリタニカ国際大百科事典収録、https://kotobank.jp/word/三好学-139819)にて主要業績を確認した。

Ⅴ. 白井光太郎(1863–1932)|応用期——病理・農業連携による実装段階

江戸霊岸島の福井藩中屋敷(現・東京都中央区新川)に生まれた植物学者・本草学者。東京大学理科大学で植物学を専攻し、明治19年(1886年)卒業後、東京農林学校の教職に就き(助教授、翌年教授)、明治23年(1890年)に帝国大学農科大学に異動して助教授となった。明治32年(1899年)にドイツへ留学(〜1901年)。帰国後の明治39年(1906年)4月に東京帝国大学農科大学に植物病理学講座が開設され、同年5月に白井は同講座の初代教授に就任した。日本における植物病理学の開拓者の一人とされる。日本植物病理学会は大正5年(1916年)12月2日に創立され、白井はその設立に参加した。会長職は大正7年(1918年)から会則に採り入れられ、白井が初代会長を務めた。また伝統的な本草学にも造詣が深く、日本博物学史・日本生物学史の研究を開拓した(参照人物Ⅴ)。

栽培管理技術および病害対策の技術的基盤を提供したことで、観葉植物・園芸植物が商業的に「枯れにくく、安定して供給でき、商品として長く維持できる」ための基盤整備に寄与した存在であると考えられる。

当時の評価:農学・林学・実務的な園芸分野の専門領域で高い実用的評価を得たが、一般的な文化的知名度は低かった。

現代への影響度:★★★☆☆

白井光太郎 参照

参照人物Ⅴ
国立国会図書館「近代日本人の肖像」白井光太郎の項(https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6427/)。生没年(1863年7月17日〜1932年5月30日)・学歴・東京農林学校教職・ドイツ留学(1899〜1901年)について公的機関資料で確認。植物病理学講座の開設(1906年4月)および白井の初代教授就任(同年5月)については東京大学植物病理学研究室公式ウェブサイト(https://webpark1802.sakura.ne.jp/planpath/)にて確認。日本植物病理学会の創立(1916年12月2日)・会長職の会則採用(1918年)・白井が初代会長に就任したことについては、日本植物病理学会公式サイト「歴史」(https://www.ppsj.org/about/history/)にて確認。

前期人物群の総括

この時代の先駆者たちは、誰一人として「観葉植物をインテリアとして売ろう」とした人でも「室内装飾としてのグリーンをファッショナブルに語った人」でもない。しかし彼らの学術的・制度的な営みは、結果として後世に観葉植物文化が「産業および文化として成立する条件」を積み重ねていった。

伊藤圭介が、西洋植物学への「入口」を開き、松村任三が、国家的な「制度と分類」を確立し、牧野富太郎が、知識を「大衆社会へ接続」し、三好学が、植物を「環境(空間)と結びつける視点」をもたらし、白井光太郎が、病理や管理という「実用の技術」へ落とし込んだ。

この知識と技術の積み重ねがあったことで、次の時代(明治末〜大正・昭和)において植物の「商業化・大衆化・インテリア化」という新たな展開へと向かう条件が形成されていったと考えられる。

補足資料|日本の植物を海外へ伝えた人々——「文化の往復運動」を示す同時代史

本編では、日本国内において植物を科学的に管理・普及させていった内側の動きを追ってきた。しかし同時代、日本の外側(国際社会)ではこれと逆方向の動きが起きていた。

それは、日本の固有植物や伝統的園芸(盆栽や万年青など)が欧米に渡り、ヴィクトリア朝を中心とする温室・園芸文化の中で「高い鑑賞価値を持つ植物」として再評価・定着し、その欧米からの評価が再び近代化を進める日本へと戻ってくるという流れである。後年の日本の観葉植物文化は、単に欧米の文化を一方的に輸入したものではなく、こうした国際的な評価の循環の中で、自国の植物文化を再評価・再構築する形で接続されていった側面があると考えられる。なお、この「文化の往復運動」という解釈は観葉植物ラボによる分析であり、学術的な定説ではない。

ジョン・グールド・ヴィーチ(John Gould Veitch、1839–1870)

欧米側視点——植物資源の「発見者」としてのプラントハンター

ヴィーチは、イギリスの著名な植物商ヴィーチ家の一員であり、プラントハンターとして1860年に長崎へ来航した。当時21歳。英国公使ラザフォード・アルコック(Rutherford Alcock)の富士登山(西洋人による記録的な富士登山の一つ)に同行して植物採集を行い、富士山の植生についてイギリスの園芸雑誌『ガーデナーズ・クロニクル(The Gardeners Chronicle)』に報告を寄せた。その後フィリピン・オーストラリア・フィジーにも渡航し、1870年、結核により31歳で死去した(注補足1)。

彼の関心は「日本文化の紹介」ではなく、当時のヴィクトリア朝イギリスで普及していたガラス温室の園芸市場に適合する、鑑賞価値の高い植物の獲得にあった。彼は観葉植物を日本に広めた人物でも、日本の園芸文化を解説した人物でもない。しかし、「日本には欧米の園芸・室内鑑賞文化に適合しうる植物資源が存在する」という認識を欧米の園芸界に広める一因となったと考えられる。

当時の評価:欧米の園芸界・植物学界から高く評価されたが、幕末の日本国内ではほとんど知られていなかった。

現代への影響度:★★★★☆

補足1|注

注補足1
英国王立植物園キュー・ガーデンズ公式ブログ「From Chelsea to Mount Fuji, the legacy of Veitch Nurseries」(https://www.kew.org/read-and-watch/from-chelsea-to-mount-fuji-legacy-of-veitch-nurseries)。ヴィーチの来日(1860年)・アルコック富士登山同行・植物採集活動について記述する一次資料。生没年(1839年4月〜1870年8月13日)・死因(結核)については豪州国立植物園「Veitch, John Gould」(https://www.anbg.gov.au/biography/veitch-john-gould.html)による。なおアルコックの肩書については、1858年に日本の初代総領事として任命され、1859年に特命全権公使(Minister Plenipotentiary)に昇格した。富士登山(1860年9月)時点ではすでに公使の地位にあった。なお、キュー・ガーデンズのブログ原文では同人物を誤って「Consul General」と記述しているが、本ノートでは正確な職位である「英国公使」と記述する。

ルイス・ベーマー(Louis Böhmer、1843–1896)

国際流通の実装——植物文化の「貿易者」

ドイツ北部リューネブルク出身の園芸家・実業家。宮廷庭師として修業後、アメリカに渡り園芸業者として働いていた後、開拓使のお雇い外国人として来日し、北海道において果樹・蔬菜・園芸の技術指導を行った。明治5年(1872年)3月に来日した。任期満了後の明治15年(1882年)、横浜に「L. Böhmer & Co.(ベーマー商会)」を設立し、日本の盆栽・ユリの球根・万年青・各種庭園植物を欧米へ輸出する民間貿易ビジネスを展開した(注補足2)。

なお、来日の経緯にホーレス・ケプロンの推薦があったとする説もあるが、本ラボが確認した一次学術論文の範囲では直接の記述を確認できておらず、この点は保留とする。

彼が主に扱ったのは日本の盆栽やユリの球根、伝統的な園芸植物であり、直接的に熱帯観葉植物を日本に導入した人物ではない。しかし彼の活動は、「植物を、その背景にある独自の文化的価値(日本の美意識や仕立ての技術)とともに輸出する」という持続的なビジネスモデルを定着させた点に意義があると考えられる。

当時の評価:欧米の園芸・貿易業界では信頼できる実務家として高評価を得たが、日本国内では業界の裏方的な存在であった。

現代への影響度:★★★☆☆

補足2|注

注補足2 小原淳(早稲田大学)「北海道に存するドイツ関連史跡の総合的検討——日独関係史の再検討に向けて」『WASEDA RILAS JOURNAL』第8号(2020年)(https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2020/10/053-064_Jun-OBARA.pdf)。ベーマーの出身地(リューネブルク)・来日(1872年3月)・ベーマー商会の設立(1882年)・同商会の活動内容(西洋花卉の輸入と日本の植物・盆栽の輸出)について一次学術論文にて確認。同論文には「1894年10月に離日し、2年後に療養先のブランケンブルクで他界した」との記述があり、没年が1896年であることを確認した。なお生年(1843年)については複数の資料が一致しているが、生年月日の正確な記録は本ノートでは一次学術論文での確認にとどまるため断定を避ける。

補足総括——植物文化は「一方向の輸入」ではなく「往復の循環」として捉えられる

後年の観葉植物文化は、誰か一人が海外から持ち込んだから始まったのでも、誰か一人が売り出したから流行したのでもない。「日本の植物やその鑑賞技術が外側の世界(欧米)からどのように価値付けされたか」という国際的な視線が存在し、それが近代化を進める日本国内の建築空間の変化と学術的インフラの整備と結びついたとき、日本人自身が「植物を室内に置き、鑑賞することの近代的意味」を再定義する必要性に迫られた。この「外からの評価と内からの応答の往復運動」という歴史的重層性が、次のステップである植物の「商業化・大衆化・インテリア化」(研究ノート004)へと向かう一つの背景となったと考えられる。

【参考情報】ロバート・フォーチュンの記録にみる、幕末日本人の植物観

同時代の重要な外部記録として、英国のプラントハンター・ロバート・フォーチュン(Robert Fortune、1812年または1813年–1880)の記述をここに付記する。

フォーチュンは1860年から1861年にかけて幕末の日本(長崎、横浜、江戸など)を訪れ、詳細な観察記録を著書に残した。日本語訳は三宅馨訳『幕末日本探訪記』(講談社学術文庫、1997年)として刊行されている(注補足3)。

同書においてフォーチュンは、当時の日本の庶民が生来の植物好きであること、その植物を慈しむ国民性が欧米と比べて際立っていると観察している。また江戸の植木村(現・東京都豊島区駒込周辺の染井村など)を訪れた際には、すでにサボテン、アロエ、フクシアといった外来植物が栽培されている様子を目撃し、記録している。なお生年には資料によって差異がある(注補足3参照)。

【考察・推察】このフォーチュンの記録が示すのは、西洋から近代的な室内緑化の概念が本格的に導入される前の日本において、すでに庶民に至るまで広く植物を慈しみ、高度な園芸技術を享受していたという事実である。この「生来の植物好き」という国民性と高い文化的土壌が、明治以降に西洋建築や新しい外来植物が入ってきた際に、その受容を促す文化的基盤の一つになった可能性があると考えられる。ただしこれはあくまで推察であり、学術的に確立された見解ではない。

補足3|注

注補足3
ロバート・フォーチュン著、三宅馨訳『幕末日本探訪記』(講談社学術文庫、1997年)。原著:Robert Fortune, Yedo and Peking: A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China, London: John Murray, 1863。日本の庶民の植物好きに関する記述、および江戸の植木村でのサボテン・アロエ・フクシアなどの外来植物栽培に関する記述が含まれる。フォーチュンの生年については、国立国会図書館の典拠データでは1813年とされる一方、その他の一般向け資料では1812年とする記述が多く見られ、本ノートでは確定を避け両論併記とする。没年(1880年)については各資料で一致している。

次章(004)への予告——商業化・大衆化・インテリアへの転換

本章(003)では、日本の植物文化を形づくった先駆者たちの思想と実践を通じて、植物の鑑賞という行為が学術・制度・技術・美意識の交差点においていかにしてその地盤が形成されてきたかを整理した。

明治末から大正、そして昭和期にかけて、植物の鑑賞は専門家や一部の文化資本層の特権的な領域を離れ、本格的な「流通・販売・設計」という近代的・商業的な回路へと組み込まれていく。同時にそれは、階層の象徴から、より広範な一般生活者へと共有されるライフスタイルへと変質し、住宅・店舗・公共空間における「インテリア(室内装飾要素)」として明確に再定義されていった。

この段階において、植物は単なる「学術的対象」や「高尚な思想の具現物」であることを超え、人工空間において「管理可能で、再現可能で、空間の価値を安定的に供給するための要素」として扱われ始める。ここに、現代の装飾グリーン、さらにはビジネスとしての業務用グリーン(グリーンレンタル等)へと接続されていく論理的前提が形成される。 次章(004)以降では、この「商業化」「大衆化」「インテリア化」というダイナミックな転換が、どのような具体的な市場条件・社会制度・建築空間条件のもとで進行していったのかを詳細に検討する。それは単なる人物史の延長ではなく、植物という自然物が近代日本の社会システムの一部へと組み込まれていくプロセスを解明するための重要な研究課題である。

研究ノートについて

※本研究ノートには、既存研究に基づく事実記述と、観葉植物ラボ独自の仮説的考察が含まれる。仮説部分については、その旨を明示した上で記載するように努めている。

※本研究ノートの内容は、複数の公開情報・既存研究・業界知見をもとに、観葉植物ラボ独自の実務視点で整理・編集されています。本研究ノートは、情報の正確性・再現性に最大限配慮して作成していますが、すべての空間条件・設計条件・管理環境に対して結果を保証するものではありません。具体的な設計・導入・運用判断については、各施設・用途・環境条件に応じた専門的検討を前提としてください。

※本研究ノートに記載した参照文献の書誌情報(著者・書名・刊行年・出版社・ISBN)は、公開書誌データベースおよび出版社情報をもとに調査・確認のうえ記載していますが、引用文については原典テキストの確認が困難な文献が含まれるため、各文献の趣旨・内容の要旨を「注」として記載するにとどめています。正確な引用を行う場合は、各文献の原典または国立国会図書館デジタルコレクション等をご参照ください。

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本研究ノート・レポートは、業務用装飾グリーンを実務として扱ってきたメーカーの立場から、観葉植物・生木・フェイクグリーン・人工樹木に関する既存の研究・文献・統計・事例・技術情報を収集・整理し、学術的な新規発見を目的とするのではなく、「現場でどのように判断し、何を基準に選定すべきか」という実務的判断軸の明確化を主眼として、空間づくりの実務に実際に活用できる知見として再構成・検証した記録である。なお本研究ノート・レポートは、観葉植物ラボが継続的に行っている業務用装飾グリーン研究の一環として位置づけられており、今後も同様の研究・検証を重ねることで、判断に使える知見の蓄積と共有を行っていく。

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本研究コラム・エッセイは、研究ノート・レポートで積み重ねてきた内容を、少し違う角度から広げていくためのものです。研究コラムでは、オフィスや店舗、施設などで実際にグリーンをどう取り入れるか、どんな空間にすると効果的かといった、日々の現場に役立つ提案を行います。一方、研究エッセイでは、実証実験の記録だけでなく、日頃の業務で感じたことやふとした気づき、外部での学びなども含めて、より自由に発信していきます。少し専門的でありながらも、どこか身近で、気軽に読める。そんな距離感で、観葉植物の面白さを伝えていく領域です。

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