観葉植物ラボ
研究ノート第一巻|002 観葉植物はどのように日本へ持ち込まれたのか
人・文化・空間・視覚から読み解く、装飾グリーンという問い
研究ノート002|観葉植物はどのように日本へ持ち込まれたのか
明治以降の植物移動と室内装飾文化の形成
はじめに(研究課題の明示)
最初に確認しておかなければならない。現在一般的に使用されている「観葉植物」という用語は、近代以降の園芸流通・園芸出版の中で徐々に整理・普及した分類概念であることは確認できる。しかし、明治・大正期の史料において、現在と同義の体系的分類概念として広く一般化していたかについては、現時点で明確に確認できていない。少なくとも、現在のように「インテリア用途・熱帯植物中心・室内装飾植物群」として統合された「観葉植物」という商業・流通上の分類は、戦後の園芸流通・出版文化の発展以降に整理・一般化した可能性が高い。ただし、「観葉植物」という語そのものについては、戦前資料中にも散発的使用例が存在する可能性があり、成立史の厳密な特定には追加調査が必要である(注1)。
そのため、本研究ノートでは「観葉植物」という語を便宜的に使用しつつも、実際には室内装飾植物・温室植物・鉢植え植物・花卉植物・洋風装飾植物・園芸植物一般・熱帯・亜熱帯植物・古典園芸植物を含む広い範囲を対象とする。
本ノートの目的は、「現在われわれが室内装飾として認識している植物群」が、日本社会へどのような経路で流入し、どのような社会層・建築空間・制度・流通を経て定着したのかを、確認可能な史料に基づいて整理することにある。
ここで重要なのは、日本の室内植物文化は、単純な「西洋模倣」として成立したわけではないという点である。日本には、西洋植物流入以前から、中国由来の文人趣味・盆栽・盆景文化・床の間文化・万年青や斑入り植物を愛好する古典園芸・植木流通業といった独自の植物文化が存在していた。
したがって、明治以降の植物文化とは「西洋植物がゼロから日本へ来た歴史」ではなく、「既存の日本園芸文化と、西洋近代園芸・温室技術・都市建築文化が接触した歴史」として捉える必要がある。
本稿では、確認可能な史料に限定し、不明な点については「現時点では確認できない」「仮説段階である」と明示しながら記述を行う。
はじめに|注
注1
塚本洋太郎 総監修『園芸植物大事典』〔コンパクト版〕(小学館、1994年。ISBN: 978-4-09-305111-8)
解説:現代園芸における植物分類・園芸用途・流通分類などを整理した大型事典(本巻2冊・別巻1冊、B5判)。現代の園芸分類において「観葉植物」が独立した分類として扱われていることを確認できる資料。本資料が「観葉植物」という用語の成立時期を直接論じたものではない点には留意が必要である。
注1補
農文協 編『花卉園芸大百科16 観葉植物/サボテン/多肉植物』(農山漁村文化協会、2002年)
解説:観葉植物・サボテン・多肉植物を現代園芸分類として体系的に整理した資料。現代日本園芸業界において「観葉植物」が独立した流通・栽培分類として定着していることを確認できる。明治・大正期から同概念が一般化していたことを示す資料ではない。
Ⅰ. 江戸以前の前提 ── 中国園芸文化の受容と日本的展開
Ⅰ-1. 中国文化と植物観賞思想
日本における植物観賞文化の一部は、中国文化の受容と深く関係していると考えられている。奈良〜平安期、日本は遣唐使や仏教文化の流入を通じ、中国由来の漢文学・庭園思想・文人文化などを受容した。植物観賞についても、その影響を受けながら日本独自の展開を遂げていったとする研究は多い(注2)。
ただし、当時の日本社会において、現在の「観葉植物」に相当する概念や、熱帯植物中心の室内装飾文化が成立していたことを示す一次史料は、現時点では確認できていない。
中国の文人文化においては、梅・蘭・竹・菊などの植物が、人格や精神性を象徴する題材として重視された。これらは後世「四君子」と総称されることが多く、中国文人画や東アジアの美術・書画文化に大きな影響を与えたとする説明が、美術史・東洋絵画史の諸資料に見られる(注3)。
ただし、「四君子」という概念の成立時期や定義については、中国絵画史・東洋美術史の中でも説明に差異があり、宋代以降の文人画文化の発展とともに整理・定着していったと考えられている。
また注意が必要なのは、これらは現代的な意味での「室内インテリア植物」ではないという点である。中国・日本双方において、当初の植物観賞は、文人趣味・詩画・庭園・茶・仏教空間と結びついており、現在のような住宅インテリア用途とは性格が異なる。確認できるのは、中国文化の受容・植物を観賞対象とする思想・盆景・盆山的発想・庭園・座敷飾り文化の流入である。
Ⅰ-2. 室内装飾としての植物文化の萌芽
室町時代になると、武家社会や禅宗文化の発展とともに、書院造や座敷飾りの様式が形成されていく。
『君台観左右帳記』は、室町時代に成立したとされる座敷飾り・唐物・美術品評価などに関する重要史料であり、足利義政(八代将軍)の東山御殿周辺の室内装飾文化を知るうえで参照されることが多い。同史料には、絵画・茶器・花器・香炉などの室内配置や評価に関する記述があり、書院空間の装飾文化を整理したものとして参照されている(注4)。
ただし、同史料には複数の系統が存在し、原本は現存しない。主として能阿弥本と相阿弥本の二系統の写本・刊本が伝わっており、能阿弥本系には文明8年(1476年)3月付の奥書があるが、能阿弥は文明3年(1471年)に没しているとされており、奥書の日付と没年の間に食い違いが見られる。この点を学術的な定説として扱うだけの裏付けは現時点で確認できておらず、本研究ノートでは仮説的な指摘として扱う(注4・補)。相阿弥本系では東北大学所蔵本に永正8年(1511年)付の奥書が確認されている。史料の成立経緯については、能阿弥がまず著し、別の同朋衆による追記を経て相阿弥本として大成されたとする説が有力とされているが、現在も諸説がある。また同史料は、絵画・茶器・花器・香炉などを中心に扱っており、現在のような「根付き大型観葉植物の常設」を示す史料ではない。
したがって、少なくとも、花器・座敷飾り・室内装飾と植物表象が結びついた文化は存在していたが、それは現在のような常設型インドアグリーン文化とは区別して理解する必要がある。
Ⅰ-3. 江戸後期の古典園芸ブーム
18世紀後半から19世紀にかけ、日本では古典園芸文化が大きく発展した。国立国会図書館の関連解説資料には、寛政期以降、斑入り植物や奇品植物への関心が高まったことが紹介されている(注5)。
江戸後期の日本では古典園芸文化が発達し、花だけではなく、葉や姿の変異を観賞対象とする植物愛好が広がった。特に万年青(オモト)・石斛(セッコク)・斑入り植物類などは、葉模様・斑・姿形の差異を鑑賞する対象として扱われた。
文政12年(1829年)刊行の『草木錦葉集』は、旗本・水野忠暁(みずの・ただとし)が著した斑入り植物の図説集であり、斑入り品を中心に千点余を収録している。図のほとんどは文人画家の大岡雲峰(おおおか・うんぽう)の門人である関根雲停(せきね・うんてい)によって描かれた。国立公文書館および国立国会図書館デジタルコレクションに現物資料が確認できる。同資料は、江戸後期の園芸愛好層において葉や変異形質そのものを鑑賞対象とする文化が存在していたことを示す史料として参照されている(注6)。
ただし、これを現在の「観葉植物文化」と直接同一視することには注意が必要である。当時の古典園芸は、現代インテリア植物とは異なる文脈の中で発展していた。
Ⅰ章|注
注2
日本園芸中央会 編『日本園芸発達史』(朝倉書店、1943年)
解説:日本園芸史を体系的に整理した戦前期の大規模資料。果樹・花卉・観賞植物・温室栽培・種苗業・造園など、日本園芸文化の発達過程をまとめている。外来植物導入史にも触れられており、日本の植物文化形成を理解するうえでの参考資料となる。国立国会図書館に所蔵記録あり。
注2補
大場秀章 著『大場秀章著作選1 植物学史・植物文化史』(八坂書房、2006年。ISBN: 978-4-89694-788-6)
解説:植物分類学・植物文化史に関する論考集。著者は東京大学名誉教授(植物分類学・植物文化史専攻、理学博士)。植物と人間文化の関係、日本・中国・西洋における植物観の形成、博物学・園芸文化の歴史などを扱う。
注3
平凡社 編『百科事典マイペディア』(平凡社)「四君子」の項目
解説:東洋美術・中国文人文化において、梅・蘭・竹・菊を人格的理想や精神性の象徴として扱う概念について解説した一般参考事典の項目。中国文人画との関係、日本への受容などにも触れている。なお、これは一般的な概説資料であり、専門的学術論文ではない。四君子概念の確立時期や詳細については、中国美術史・文人画研究の専門文献を別途参照することが望ましい。
注4
『君台観左右帳記』室町時代、足利将軍家の同朋衆であった能阿弥・相阿弥にかかわる座敷飾り・唐物評価・書院空間の装飾様式に関する史料
解説:唐絵鑑定・茶陶を中心とした美術工芸史・茶華香道の基礎史料として参照されている。原本は現存せず、能阿弥本系・相阿弥本系の2系統を中心に多数の写本・刊本が存在する。能阿弥本系の代表的なものは文明8年(1476年)3月付の奥書を持つ写本を基に塙保己一が編集し『群書類従』巻第三百六十一に収録したもので、活字版は明治31年(1898年)に刊行された(国立国会図書館デジタルコレクションで確認可能)。相阿弥本系では東北大学所蔵本が永正8年(1511年)付の奥書を持つものとして知られている。なお、能阿弥本系の奥書には文明8年(1476年)の日付があるが、能阿弥は文明3年(1471年)に没しているとされており、奥書の日付と没年の間には食い違いが見られる。この点について各事典類の解説では特に言及されておらず、現時点では本研究ノート独自の指摘にとどまる。学術的な評価が確立した見解ではないため、確証が持てる段階までは仮説として扱う。史料の成立経緯については、能阿弥がまず著し、別の同朋衆による追記を経て相阿弥本として大成されたとする説が有力であるが、現在も諸説がある。同史料は絵画・茶器・花器・香炉などの配置に関する記述を含み、書院空間の装飾文化を理解する際の参考となるが、現代的な「根付き大型観葉植物の常設」を示す史料ではない。
注4補
横井清 著『東山文化 ─その背景と基層─』(平凡社ライブラリー78、平凡社、1994年。ISBN: 978-4-582-76078-1。原著:教育社歴史新書、1979年)
解説:室町中期の東山文化について、足利義政・書院文化・民衆生活・同朋衆など多角的に論じた研究書。著者は中世民衆史専攻(富山大学人文学部教授・桃山学院大学文学部教授等を歴任。1935〜2019年)。座敷飾り文化とその社会的背景を理解する際の参考資料。
注4補
熊倉功夫 著『茶の湯の歴史 ─千利休まで─』(朝日選書404、朝日新聞社、1990年。ISBN: 978-4-02-259504-1)
解説:中世から近世にかけての茶の湯の発展と座敷文化の関係を整理した研究書。著者は日本文化史専攻・文学博士(国立民族学博物館名誉教授、MIHO MUSEUM館長等を歴任)。東山文化以降の書院空間・座敷飾りの文化的背景を理解するうえでの参考資料となる。
注5
国立国会図書館「描かれた動物・植物 ─江戸時代の博物誌─ 第二章 独自の園芸の展開」(国立国会図書館電子展示会、ndlsearch.ndl.go.jp/gallery/nature/21)
解説:江戸時代後期に発展した日本独自の古典園芸文化について解説した電子資料。斑入り植物・変異植物・奇品植物などが愛好された背景や、関連図譜について紹介している。
注5補
大場秀章 著『江戸の植物学』(東京大学出版会、1997年。ISBN: 978-4-13-063315-4)
解説:江戸時代における本草学・植物学の発展と、植物愛好文化の成立過程を整理した研究書。著者は東京大学名誉教授・植物分類学専攻(理学博士)。古典園芸ブームの背景を理解するうえでの参考資料となる。
注6
水野忠暁(みずの・ただとし)著・関根雲停 画(大岡雲峰門人)ほか『草木錦葉集』緒巻・前編・後編(須原屋茂兵衛 他、文政12年〈1829年〉刊)
解説:旗本・水野忠暁が著した斑入り植物の図説集。斑入り品を中心に千点余を収録。図のほとんどは大岡雲峰の門人である関根雲停が描いた。江戸後期における古典園芸文化、特に斑入り植物鑑賞の流行を示す代表的史料の一つ。国立公文書館(archives.go.jp)および国立国会図書館デジタルコレクション(dl.ndl.go.jp)で確認可能。なお著者名は書誌によって「水野忠敬」と表記される場合もあるが、読み仮名を含む表記上のゆれであり同一人物を指す(国立公文書館では「水野忠暁(みずの・ただとし)」と明記)。
Ⅱ. 明治維新と植物移動の拡大 ── 開国と西洋園芸文化
Ⅱ-1. 開国による植物流通の変化
1854年の日米和親条約、1858年の日米修好通商条約以降、日本は本格的に国際貿易体制へ組み込まれていく。これにより植物流通も変化した。江戸期以前にも出島経由で植物流入は存在したが、開国後は、試験栽培・植物収集・博覧会・植物園・農業政策などと結びついた、近代的植物行政が形成されていく。
Ⅱ-2. 岩倉使節団とキュー植物園
1871年に派遣された岩倉使節団は欧米各国を視察した。久米邦武 編『特命全権大使米欧回覧実記』(博聞社、1878年)には、イギリスの王立植物園(キュー植物園)に関する記録が含まれている。同資料には、植物収集・温室施設・植物研究・標本管理など、西洋における近代的植物管理制度の様子が記録されており、日本側がこれに強い関心を向けていたことが読み取れる(注7)。
ただし、この時点で現在的意味での「観葉植物文化」が日本家庭へ直接導入されたことを示す史料までは確認できない。確認できるのは、国家レベルで西洋の植物研究・管理制度に強い関心が向けられていた事実である。
Ⅱ-3. 田中芳男と近代博物行政
田中芳男(1838〜1916)は、幕末から明治期にかけて活動した博物学者・行政官であり、日本の博物館制度・博覧会制度の形成に大きく関与した人物として知られる。後年、「日本の博物館の父」と称されることがある。
確認できる事実として、田中芳男は1867年パリ万国博覧会・1873年ウィーン万国博覧会への参加、日本初期の博物館制度整備、内国勧業博覧会の運営、動植物・標本収集、博物学・物産学の普及などに深く関与していた。また東京国立博物館や上野動物園の前身にあたる施設の設立に貢献したことが確認されている(注8)。
一方で、現時点で確認可能な史料の範囲では「田中芳男が近代日本の観葉植物文化を直接普及させた」とまでは断定できない。確認できるのは主として、植物を博覧会・博物館における展示対象として扱ったこと、博物館的展示文化を整備したこと、植物標本行政・教育普及へ関与したことである。 史料的に慎重な表現としては「田中芳男は、植物を展示・教育・収集対象として社会へ可視化した重要人物であり、近代植物文化基盤形成の一端を担った可能性が高い」とするのが適当である。
Ⅱ章|注
注7
久米邦武 編『特命全権大使米欧回覧実記』全5篇100巻(博聞社〈太政官記録掛蔵版〉、明治11年〈1878年〉10月刊行)
解説:岩倉使節団(1871〜1873年)の公式見聞記録。英国視察の記録には、ロンドン近郊の王立植物園(Royal Botanic Gardens, Kew)に関する記述が含まれており、植物収集・温室施設・植物学研究・標本管理などの様子が記録されている。現代では岩波文庫でも参照可能。国立国会図書館デジタルコレクションで確認可能(dl.ndl.go.jp)。
注8
神宮農業館(神宮の博物館)ウェブサイト「田中芳男と神宮の博物館」(museum.isejingu.or.jp)
解説:神宮農業館(明治24年設立)の創設に中心的に携わった田中芳男について、その事績と神宮との関係を紹介したウェブ資料。
注8補
国立科学博物館 企画展「没後100年 田中芳男 ─日本の博物館を築いた男─」(2016年8月30日〜9月25日開催)展示関連資料
解説:田中芳男の博物学・博覧会・博物館設立に関わる事績を扱った企画展。田中芳男(1838〜1916)は幕末から明治期にかけて活動した博物学者・行政官。1867年パリ万国博覧会・1873年ウィーン万国博覧会への関与、内国勧業博覧会の運営、博物学・物産学普及などが確認されている。東京国立博物館・国立科学博物館・上野動物園の前身にあたる施設の設立に貢献した。
注8補
東京大学附属図書館「田中芳男文庫」(lib.u-tokyo.ac.jp)
解説:田中芳男が収集した資料コレクション。東京大学総合図書館が所蔵・公開する特別コレクション。
Ⅲ. 西洋温室植物の導入
Ⅲ-1. 明治政府と洋風建築
1870〜1890年代、日本では文明開化政策のもと、鹿鳴館を代表とする洋風建築が建設された。それに伴い、温室・西洋庭園・洋風装飾植物なども導入され、近代国家空間における西洋園芸文化形成が進行した。
また、新宿植物御苑(現在の新宿御苑)については、明治5年(1872年)に内藤新宿試験場が創設されたことに始まる。明治12年(1879年)に宮内省所管の施設(植物御苑)として発足して以降、御料野菜や果樹の栽培が主体であった。
その後、福羽逸人の関与のもと明治26年(1893年)に加温設備を備えた温室が完成したのを機に(環境省・新宿御苑の公式資料では明治25年頃から工事が進められ、翌26年に完成したとされる)、熱帯・亜熱帯由来のラン科植物を軸とした収集・栽培研究が本格化したことが、新宿御苑側の公式記録から確認できる。
栽培された洋ランは宮中行事の花卉として用いられ、あわせてメロンやパイナップルといった果物の早期収穫を狙った温室栽培も試みられていた(注9)。
Ⅲ-2. 熱帯植物の導入
明治期には、ヤシ類・シダ類・ゴムノキ類・ラン類など、西洋温室園芸で扱われていた熱帯・亜熱帯植物群の一部が日本へ導入されていたことが確認できる(注9)。
ただし、ここで重要なのは「これら植物が当初から一般家庭へ広範普及していたわけではない」という点である。現時点で確認できる範囲では、これら植物の多くは温室・宮廷空間・洋館・公共施設・博覧会施設など、限定的空間で管理・展示されていた。
なお、「観葉植物が畳を腐らせた」「日本家屋と衝突した」といった説明については、現時点で一次史料による直接確認はできていない。そのため、この種の説明は後年の推測・一般化を含む可能性があり、史料上は慎重に扱う必要がある。
Ⅲ章|注
注9
一般財団法人国民公園協会新宿御苑公式サイト「新宿御苑の歴史」および関連記事(fng.or.jp/shinjuku/)
解説:新宿御苑の成立・温室運営・西洋庭園整備に関する公式資料。内藤新宿試験場(明治5年創設)から植物御苑(明治12年)への変遷、明治12年以降は御料野菜・果樹栽培が主体であったこと、明治25年(1892年)の加温式温室建設以降に熱帯・亜熱帯植物の栽培が本格化したこと、福羽逸人によるラン類の収集・研究が進められたことが確認できる。
注9補
白幡洋三郎 著『近代都市公園史の研究 ─欧化の系譜─』(思文閣出版、1995年)
解説:明治日本における洋風庭園・西洋園芸導入史を扱う研究書。著者は国際日本文化研究センター教授。
注9補
國雄行 著『博覧会と明治の日本』(歴史文化ライブラリー298、吉川弘文館、2010年。ISBN: 978-4-642-05698-4)
解説:明治期博覧会と西洋文化・植物展示導入の背景を理解するうえで参照できる研究書。著者は首都大学東京大学院人文科学研究科准教授(刊行当時)、博士(史学)。
Ⅳ. 大正期における生活空間の変容と洋間文化
Ⅳ-1. 文化住宅と洋間
大正末期から昭和初期にかけて、日本では「文化住宅」と呼ばれる新しい住宅様式が都市部を中心に普及した。文化住宅とは、和室・洋間・ガラス窓・板張り床などを組み合わせた和洋折衷型住宅を指す。当時の生活改善運動や都市中間層文化の拡大とともに、洋間を備えた住宅様式が近代的生活空間として紹介・普及されていった。この洋間空間は、西洋由来の家具・装飾品・鉢植え植物などを配置しやすい環境でもあった(注10)。
ただし、現時点で確認可能な史料の範囲では「文化住宅が観葉植物専用空間として設計されていた」ことを直接示す一次史料は確認されていない。確認できるのは主として、洋間装飾・生活改善運動・住環境近代化・室内装飾文化の流れの中で、鉢植え植物や室内植物が扱われていたことである。
史料的には「文化住宅の洋間空間は、結果的に近代的室内植物文化を受容しやすい環境となった可能性が高い」とするのが適当である。
Ⅳ-2. 『婦人之友』と生活改善運動
大正〜昭和初期に刊行された『婦人之友』には、洋間・住環境改善・採光・家庭衛生などを取り上げる記事が多数掲載されており、誌面には鉢植え植物が登場する例もある(注10)。
ただし、『婦人之友』は観葉植物専門誌ではない。したがって「当時すでに現代的観葉植物文化が形成されていた」とまでは言えない。確認できるのは「植物が近代的家庭生活の一部として徐々に扱われ始めていた」という点である。
Ⅳ章|注
注10
『婦人之友』大正〜昭和初期各号(婦人之友社刊行)
解説:生活改善運動・文化住宅・洋間生活に関する当時の雑誌資料。洋間空間での鉢植え植物の活用例なども掲載されている。
注10補
内田青蔵 著『日本の近代住宅』(鹿島出版会、1992年。ISBN: 978-4-306-04301-5)
解説:近代日本住宅史・文化住宅形成過程を扱う研究書。著者は神奈川大学建築学部特任教授(日本近代建築史専攻、工学博士)。大正〜昭和初期の都市住宅文化の変容について整理した資料。
注10補
橋爪紳也 著『モダン都市の誕生 ─大阪の街・東京の街─』(歴史文化ライブラリー156、吉川弘文館、2003年。ISBN: 978-4-642-05556-7)
解説:カフェー・ダンスホール・百貨店など20世紀初頭の大阪・東京の盛り場を中心に、近代日本都市のモダニズムとその時代の文化を描いた都市文化論。著者は大阪市立大学大学院文学研究科助教授(刊行当時)、工学博士(大阪大学)。近代都市空間の変容と洋風文化の浸透を理解するうえでの参考資料となる。
Ⅴ. まとめ
確認可能な史料から言えることは以下である。
日本の室内植物文化は、中国由来の文人趣味・江戸古典園芸・明治の西洋園芸導入・温室技術・洋風建築・大正期生活改善運動など、複数要素が長期間かけて重なり形成された。一方で「いつ現代的観葉植物文化が確立したか」を厳密に特定することは難しい。また、日本人が当時どう感じていたか・なぜ植物を置いたか・空間をどう解釈したかについては、十分な一次史料が存在しない場合も多い。そのため本研究では、確認できる史料と推測・解釈・仮説を厳密に分離して扱う必要がある。
少なくとも確認できる範囲では、以下の点は比較的確実性の高い事実として整理できる。
・日本には明治以前から葉を観賞する文化が存在した
・明治以降、西洋温室植物が導入された
・大正〜昭和初期に洋間文化とともに、鉢植え植物や室内装飾植物を配置しやすい住環境が徐々に広がった
・ただし当初は限定的階層・限定空間中心だった
次章(003)への予告──博物学・園芸・殖産興業の時代へ
観葉植物が日本に「入ってきた」だけでは、文化は定着しない。それを理解し、分類し、育成し、制度として支えた人々の存在があって、はじめて植物は社会の中に居場所を得る。
次の研究ノート003では、明治から大正期にかけて、日本の植物文化をかたちづくった人物たちに焦点を当てる。博物学者、園芸家、官僚、実業家──彼らはなぜ植物に向き合い、どのような動機で西洋の知を導入し、日本的環境へと翻訳しようとしたのか。
殖産興業という国家的課題、博物学という学知、園芸という実践。その交点に立った人々の思考と行動を追うことは、観葉植物が「装飾」ではなく「文化装置」として位置づけられていく過程を理解するうえで欠かせないと考えられる。
この課題に取り組むことで、日本の観葉植物文化が偶然の流行ではなく、意志と構造によって形成された可能性があるという仮説を、より具体化していきたい。

