観葉植物ラボ
研究ノート第一巻 第Ⅱ章|007 育成目的の観葉植物とは何か

人・文化・空間・視覚から読み解く装飾グリーンの本質

【第Ⅱ章|定義の分解】「観葉植物」という言葉を解体する

研究ノート007|育成目的の観葉植物とは何か
── 植物を「育てる」ことが価値になる世界

はじめに(研究課題の明示)

育てるという行為は、いつから目的になったのか

植物を育てる行為には、常に二つの顔がある。一つは、成果を得るための行為。もう一つは、割に合わないと分かっていても続けられる行為である。

野菜を育てる人の多くは、実利を求めている。収穫した実を食べるため、安心できる食材を得るため、あるいは「作ったらタダだから」という理由で畑に向かう人も少なくない。しかしこの「タダだから」という理由は、時間・労力・失敗・知識習得を含めて考えれば、最も高くつく行為であるとも言える。

それでも人は育てる。合理性だけでは説明できないと分かっていても、「割に合わない」ことを疑うことなく続けてしまう。

一方で、人は花を育てる。花は食べられない。それでも手間をかけ、咲いた瞬間を待ち、やがて散る姿さえ受け入れる。ここには、実利とは異なる心理的・精神的な価値が確かに存在している。

さらに観葉植物に至っては、実もならず、花も咲かない場合すらある。それでも人は、水を与え、置き場所を考え、成長に一喜一憂する。

育てるという行為は、実利を求める合理的判断と、割に合わなくても関わってしまう本能的衝動の、そのせめぎ合いの中に存在している。

本研究ノートでは、育てる行為を「効率」や「成果」だけで評価するのではなく、なぜ人は、手間暇を承知のうえで育てるのか、なぜ最も高くつく行為を選び続けるのか、その葛藤そのものを出発点として問い直す。

育てるという行為は、いつから、どのようにして、目的として成立するようになったのか。

その答えは、植物の側だけでなく、人間の欲求と本能の側にこそ隠れているのかもしれない。

Ⅰ. 「育てる」という行為は、なぜ割に合わなくても選ばれるのか

1. 実利と本能のあいだに立つ「育てる」という行為

植物を育てる行為は、しばしば合理性の尺度から外れている。時間がかかり、手間も失敗も多く、成果は不確実である。同じ植物を買えば、より早く、より美しく、より確実に手に入る ── その判断は、現代社会において極めて正しい。

それにもかかわらず、多くの人は植物を「育てる」ことを選ぶ。しかもその動機は、必ずしも明確な実利に基づいているわけではない。

「作ったらタダだから」
「買うほどでもないから」
「ついでに育てているだけ」

こうした言説は、合理的に見えて、実は合理性の説明になっていない。なぜなら、「タダである」ためには、時間・労力・失敗という最も高くつく資源を差し出しているからである。

ここには、実利で説明しきれない何かと、それでもなお行為を続けてしまう人間の本能が並存している。

2. 成果を求めていないはずなのに、成果を引き受けている

興味深いのは、「成果を期待していない」と語る人ほど、結果として成果を強く引き受けている点である。

枯れかけた植物を立て直す。形の崩れを受け入れながら育て続ける。思い通りにならない成長を、やめずに見守る。これらはすべて、最初から合理的な成果を求めていれば避けられた行為である。

にもかかわらず、人は育て続ける。そこには「安く手に入れる」という目的以上に、育てたという事実そのものを成立させたい意志が見える。

ここで初めて、「育てる」という行為が結果のためではなく、行為自体として自立し始める。

3. 成果は「物」ではなく「時間の痕跡」である

育てた植物の成果は、完成した姿そのものでは完結しない。葉の傷、剪定の跡、成長の偏り、回復に要した時間。それらはすべて、育成の過程が刻み込まれた痕跡である。市場で購入できるのは、一定の基準を満たした「状態」であって、そこに至るまでの時間の堆積ではない。

つまり成果とは、植物そのものではなく、植物とともに過ごした時間である。この時間は、後から購入して補うことができない。なぜなら、それは物ではなく、引き受けた経過そのものだからである。

4. 購入では埋まらない「成果の代替不可能性」

仮に同じ品種・同じサイズ・同じ健康状態の植物を金銭で手に入れ直したとしても、それは成果の再取得にはならない。

育成成果が満たしているのは、待ったという事実・判断したという経験・失敗を含めて引き受けた時間といった、主体の関与を前提とした価値である。

購入によって更新できるのは所有であって、関与の履歴ではない。ここに、「育てたものは買えない」という感覚の正体がある。

5. Ⅰ章まとめ ── 育てる行為は、いつから目的になったのか

人は必ずしも成果のために育てているわけではない。しかし結果として、育てたという事実を失うことは拒む

この逆説の中で、「育てる」という行為は、実利の手段から、目的そのものへと変質していく。育てることは、得をするためではなく、時間を引き受けたという自己確認の行為である。

だからこそ、割に合わなくても、買った方が早くても、人は育てる。

補足考察
「タダだから育てる」という言説は、どこから来たのか

「作ったらタダだから」
植物を育てる動機として、この言葉は驚くほど頻繁に語られる。しかしこの言説を、文字通りの意味で受け取る人は少ない。

苗代、土、肥料、水、道具。そして何より、時間と労力。それらをすべて計算に入れれば、育てる行為は決して「タダ」ではない。むしろ、市場で購入するより高くつくことすらある。

それでもなお、この言葉が使われ続けるのはなぜか。

1. 「タダ」は経済用語ではなく、生活感覚の言葉である

「タダだから育てる」という言説は、厳密な経済合理性を表すものではない。それは、生活感覚としての合理性を示す言葉である。

ここで言う「タダ」とは、以下の前提の上に成り立っている。

つまり、自分の時間や手間はコストとして数えられず、市場で支払うお金だけが「負担」として意識される。

この感覚は、自給的生活や農的暮らしが日常であった時代の価値観と深く結びついている。

2. 「タダ」という言葉に隠された、勤勉と肯定の倫理

文化史的に見ると、日本社会には「手を動かすこと自体を肯定する倫理」が存在してきた。

この価値観の中では、時間と労力をかける行為そのものが、すでに意味を持つ。「タダだから育てる」という言葉は、実際には「どうせ使う時間なら、育てることに使う」という選択の表明に近い。

ここでは、時間は節約すべき資源ではなく、使い切るべきものとして捉えられている。

3. 最も高くつく行為を、疑いなく選ぶという逆説

経済的に見れば、育てる行為は非効率で、不確実で、失敗も多い。それでも人は、「タダだから」という言葉で、その不合理性を軽やかに乗り越えてしまう。

ここには、コスト計算を拒否する一種の本能的態度が見える。

この態度は、合理的選択とは別の軸で行動していることを示している。

4. 「タダだから育てる」は、実利と本能の境界線

重要なのは、この言説が実利を否定していない点である。

実を食べる。野菜を収穫する。確かに実利は存在する。しかし同時に、その実利だけでは説明しきれない行為が、「タダだから」という一言で包み込まれている。

この言葉は、育てる行為が経済的判断と本能的欲求の境界に位置していることを、無意識のうちに示している。

5. 育てるという行為は、いつ目的になったのか

「タダだから育てる」という言説をたどると、育成はすでに成果のための手段であると同時に、行為そのものが目的化している段階にあることが見えてくる。

人は、得をするから育てるのではなく、育てることを疑わないから育てている。この地点に立ったとき、育成はもはや経済合理性の延長では説明できない。

本研究ノートが問いかける「育てるという行為は、いつから目的になったのか」という問いは、まさにこの言説の奥に潜んでいる。

Ⅱ. なぜ人は「育てる時間」を引き受けたがるのか
── 成果ではなく、過程に価値を見出す人間の心理

1. 問いの再設定 ── 時間のかかる行為を、なぜ選び続けるのか

Ⅰ章では、「育てる」という行為が実利の手段でありながら、次第に目的そのものへと転じていく過程を見てきた。本章に進む前に確認しておきたいのは、前章で扱ったのが「なぜ代替できないのか」という現象の記述であり、その原因や構造そのものは、まだ解き明かされていないという点である。

ここで改めて、問いを研ぎ澄ます必要がある。なぜ人は、成果が遅く、不確実で、代替可能ですらある行為に自らの時間を差し出し続けるのか。

現代社会では、多くの成果は購入できる。より早く、より確実に、より高品質な結果を得る方法が常に用意されている。それでもなお、人は育てる。しかも「時間がかかること」そのものを、必ずしも欠点としては扱っていない。この点は、合理性だけでは説明しきれない。

なお、人間が生命や自然との関係性を求める傾向については、生物学や環境心理学の分野でバイオフィリアと呼ばれる仮説が提示されてきた(E.O.ウィルソンらによる提唱)。ただし、これが普遍的本能であるかどうかについては、現在も研究上の議論が続いている

2. 育成は「時間を短縮できない」行為である

育てるという行為の特異性は、努力や投資によって時間を圧縮できない点にある。水やりを増やしても、光を強めても、成長は一足飛びには進まない。育成において人ができるのは、「待たないこと」ではなく、待ち方を選ぶことだけである。

ここで人は、時間を管理する主体であることを一度手放し、時間の流れに身を置く立場へと移行する。この構造は、園芸療法の分野でも注目されてきた。植物と関わる活動が、心理的な安定や回復感と結びつく可能性があることは医療・福祉領域で繰り返し報告されている(ただし、その効果や因果関係の強さには個人差があるとされている)。

ここで重要なのは、育成が「成果を急がない状態」を人為的に作り出す行為である点だ。

3. 待つことは、受動ではなく判断の連続である

「待つ」という行為は、しばしば何もしないことと誤解される。しかし育成における待ちは、判断の停止ではない。

これらはすべて、行為をしないという選択である。育てるとは、行為と不行為のあいだで判断を重ねることだ。この判断の蓄積が、後に「育てた」という実感を生む。

園芸療法の研究においても、植物と関わる際の主体的判断や役割感が心理的満足や自己効力感と関連する可能性が指摘されている。ただし、これは「治療効果」として一義的に測定できるものではなく、体験の質に大きく左右されるとされている。

4. 成果よりも先に立ち上がる「時間を共有した感覚」

育てた植物を語るとき、多くの人は完成形よりも過程を先に思い出す。枯れそうだった時期。迷った判断。失敗の痕跡。これらは成果物には含まれないが、育成体験の中心を占めている。

つまり、価値の焦点は「何を得たか」ではなく、どれだけの時間を共有したかへと移動している。この点は、バイオフィリア仮説が示唆する「生命との関係性そのものに意味を見出す傾向」と部分的に重なっている。

ただし、それが本能なのか、学習による嗜好なのか、あるいは社会的文脈の産物なのかについては、明確な結論は出ていない。

ここで提示した諸仮説は、いずれか一つに回収されるべき競合関係にあるのではなく、育てる行為を異なる層から説明するための並列的な視点であり、本研究では意図的に結論を単一化しない立場を取る。

5. Ⅱ章まとめ ── 育てるとは、時間を引き受ける練習である

人が育てる理由は、成果の最大化では説明しきれない。育成とは、以下を含めて引き受ける行為である。

そしてこの「引き受けた時間」こそが、購入や代替では埋まらない価値を生む。

育てることは、成果を得るための手段である以前に、時間との関係を再構築する行為なのかもしれない。この時間感覚が、次章で扱う加齢・回復・本能としての育成欲求へと静かにつながっていく。

Ⅲ. 加齢と育てる欲求
── なぜ人は年を重ねると「育てる」ことに向かうのか

1. 年齢とともに現れる「育てたい」という志向

本章では、育てる欲求がどのような条件下で顕在化するのかを検証するため、その傾向が最も可視化されやすい局面として「加齢」という時間軸に注目する。

多くの社会において、年齢を重ね第一線を退いた人々が、畑仕事、庭の手入れ、花や盆栽、鉢植え、観葉植物の育成へと関心を向ける現象は、広く観察されている。

この傾向は、「時間に余裕ができたから」「他にやることがないから」といった説明で片づけられがちである。しかし、同じ条件下に置かれても、すべての人が育成行為に向かうわけではない。

ここには、単なる余暇消費とは異なる、加齢とともに浮かび上がる特有の欲求構造が存在している可能性がある。

2. 実利的説明はどこまで有効か

園芸や農作業は、健康維持、軽度運動、生活リズムの安定、さらには収穫物という実利を伴う行為である。実際、野菜や果実を自ら育てて食することには、安全性や鮮度、費用感覚といった明確なメリットが存在する。

しかし、こうした実利は「育てる行為そのもの」への執着を完全には説明できない。なぜなら、同じ成果を得るだけであれば、購入というより合理的で効率的な手段が常に存在しているからである。

それでもなお、多くの人は、割に合わないと分かりつつ、時間と手間をかけて育て続ける。この点において、育成行為は実利的判断だけでは説明しきれない領域へと踏み込んでいる。

3. 加齢によって変化する「時間の価値」

加齢がもたらす重要な変化の一つは、時間に対する価値判断の変容である。

若年期においては、成果の速さ、効率、即時的なリターンが重視されやすい。一方で、年齢を重ねるにつれ、結果までに要する時間そのものが価値として再評価されていく。植物を育てる行為は、この変化した時間感覚と極めて相性が良い。

にもかかわらず、その過程自体が満足や意味を生み出す。ここでは、「早く得る」ことよりも「関わり続けた時間」が重視されている

4. 成果が過程へと移動する構造

加齢とともに、育成行為における価値の重心は、次第に成果物から過程へと移動していく。収穫量や見た目の完成度よりも、世話をしたという実感、判断を重ねた履歴、回復させた経験といった、主体的関与の連続性が満足の中心となる。

園芸療法の研究領域においても、育成効果の本質は成果物そのものではなく、対象者が行為に主体的に関わる点にあると指摘されている。これは治療や矯正の話に限らず、日常生活における育成行為全般にも当てはまる視点である。

5. 非代替的価値への志向

育てた植物は、同じ品種であっても他の個体と完全に置き換えることはできない。そこには、失敗した記憶、迷った判断、待ち続けた時間が不可逆的に刻まれている。

加齢に伴い、こうした代替不可能な経験価値を重視する傾向が強まることが、心理学的にも指摘されている。このとき植物は、装飾物や生産物ではなく、自らの時間と行為を映し返す存在となる。

6. 本能か、文化か ── 仮説としての位置づけ

では、この「育てたい」という欲求は、人間に本来的に備わった本能なのか、それとも文化的に獲得された嗜好なのか。

バイオフィリア仮説は、人間が生得的に自然や生き物へ関心を向ける傾向を持つ可能性を示唆する。一方で、社会的役割の変化や文化的学習の影響を重視する立場も存在する。

現段階において、どちらか一方に結論づけることはできない。むしろ、生物的・心理的・文化的要因が重層的に絡み合っていると考える方が妥当である。

Ⅲ章まとめ

加齢とともに現れる「育てる欲求」は、余暇や実利だけでは説明できない。それは、以下の変化の交差点に現れる行為である。

この欲求は、人間が自然に回帰したいからでも、単に暇だからでもなく、自らの時間と関係を再構築しようとする動きとして捉えることができる。

Ⅳ.「老い」と「育てる欲求」の交差点
── 人はなぜ、人生の後半で植物と向き合うのか

1. 本章の位置づけ

本章は、Ⅲ章で観察した「加齢と育てる欲求」の傾向を受け、その背景にある構造を、もう一段深く読み解く試みである。あらかじめ断っておくならば、ここで扱う内容は、明確な因果関係が証明された結論ではない。

しかし、複数の研究領域や文化的観察を重ね合わせることで、なぜ老いと育てる行為が交差しやすいのかという問いに、一定の解釈可能性を与えることはできる。研究ラボとして、このテーマを外すことはできない。

2. 「老い」とは喪失だけの過程なのか

老いは、一般に次のような変化を伴う。社会的役割の縮小、身体能力の低下・即時的成果を求められる場面の減少、これらはしばしば「喪失」として語られる。しかし、価値判断の軸そのものが変化する過程と捉え直すと、老いは単なる減衰ではなく、評価基準の再編成とも言える。

ここで重要なのは、人生後半において人が求める満足が、外部評価や効率性から離れていく点である。植物の育成は、この変化と強く共鳴する行為である。

3. 植物育成が受け止める「役割の空白」

第一線を離れた人々が直面するのは、「何をすればよいか」ではなく、「何に関与し続けられるか」という問いである。

植物は、指示を出さない・競争を求めない・成果を急がせないにもかかわらず、放置すれば確実に衰える。この特性は、責任を伴うが支配を必要としない関係性を生み出す。

老いによって社会的役割が薄れたとしても、植物との関係においては、人は再び「必要とされる側」に立つことができる。

4. 時間を引き受ける主体への回帰

Ⅲ章で触れたように、加齢は時間の価値判断を変化させる。若年期においては、時間は消費すべき資源であり、成果へと変換されるべきものだった。

一方、人生後半では、時間は「使うもの」ではなく、共に過ごすものへと意味を変える。植物の育成は、この時間観と極めて親和性が高い。

成長を早めることはできない、途中経過を飛ばすこともできない、それでも関与し続けることで、時間そのものが経験として蓄積される。

老いとは、再び時間を引き受ける主体へと戻っていく過程なのかもしれない。

5. 本能か文化か ── 再考

バイオフィリア仮説は、人間が生得的に自然と関係を結びたがる可能性を示す。一方で、農耕・園芸・庭文化といった長い歴史は、育てる行為が文化的に学習され、継承されてきたことを示している。

老いと育てる欲求の交差点において重要なのは、この二項対立を解消する視点である。

本能的傾向が、文化的経験によって形を与えられ、人生の特定局面で再び浮上する。その結果として、老年期における育成嗜好が現れると考える方が、現実の観察には近い。

6. 「生産」から「関係」への転換

人生前半において、人は成果を生み出す存在であることを求められる。しかし人生後半では、成果を生むことよりも、関係を結び続けることが意味を持ち始める。

植物育成は、生産と関係の両義性を持ちながら、後者へと重心を移しやすい行為である。収穫や成長は副次的なものであり、主たる価値は関係の継続そのものにある。

この構造は、老いという局面において、人間の欲求と自然に重なり合う。

7. Ⅳ章まとめ ── 交差点としての育成行為

「老い」と「育てる欲求」の交差点は、偶然の一致ではない。それは、役割の再構築、時間観の変化、非代替的関係への志向といった複数の変化が重なり合う地点である。

植物を育てることは、若返りでも、回帰でもない。それは、人生の後半において、人が再び世界と関係を結び直すための行為として現れる。本研究ノートでは、これを結論として固定することはしない。

ただし、観葉植物を「育てる」行為が、老いとともに意味を深めていく現象は、無視できない事実として、ここに記しておく。

まとめ ── 育てるという行為は、いつから目的になったのか

本研究ノートでは、観葉植物を「育てる」という行為そのものに焦点を当て、その価値がどこに生まれるのかを問い続けてきた。

出発点にあったのは、育成の成果が購入によって代替できないという違和感である。同じ植物を、より良い状態で、より早く手に入れる手段が存在するにもかかわらず、人はあえて時間と手間を引き受け、育てることを選ぶ。そこには合理性だけでは説明できない何かが確かに存在していた。

Ⅱ章では、その背景にある構造として、人間と自然との関係性、本能的傾向、心理的作用、文化的学習といった複数の仮説を並置した。それらはいずれも決定打ではなく、しかし互いに重なり合いながら、「育てたい」という欲求を形づくっている可能性を示していた。

Ⅲ章・Ⅳ章では視点を人生の時間軸へと移し、とくに加齢という局面において、育てる行為が意味を帯びやすくなる理由を探った。そこでは、成果を急ぐ価値観から離れ、時間を引き受け、関係を結び続けること自体が満足や意味へと転化していく様子が浮かび上がった。

これらを通して見えてきたのは、育てるという行為が、必ずしも最初から目的であったわけではない、という点である。多くの場合、それは実利のための手段として始まり、あるいは偶然に始まり、やがて過程そのものが価値へと転じていく。

言い換えれば、育てることが目的になるのではなく、育て続ける中で目的へと変化していく。

観葉植物を育てるという行為は、植物を所有することでも、成果を得ることでもなく、植物と関係を結び、その関係を時間の中で更新し続ける営みである。その意味は、年齢や環境、人生の局面によって姿を変える。

本研究ノート007では、この行為を一つの答えに回収することはしない。ただし、「育てる」という選択が、人間にとって想像以上に深い欲求と結びついていること、そしてそれが観葉植物という存在を通して可視化されていることは、確かな手応えとして残った。

次の研究では、この「育てる価値」が、装飾目的・管理委託・代替技術(人工植物など)とどのように分岐していくのかを、さらに問い直していく必要があるだろう。

補足資料A|「育てたい」という欲求をめぐる研究史
── バイオフィリア・園芸療法・加齢と園芸嗜好

はじめに

本補足資料は、研究ノート007本文で扱った「育てる行為が、なぜ実利を超えた価値を持つのか」という問いに対し、現在参照可能な研究・理論を整理し、どこまでが分かっており、どこからが未解明なのかを明確にすることを目的とする。

ここで扱う理論や研究は、育てる欲求を「証明」するものではなく、あくまで 思考のための参照座標として位置づけられる。

Ⅰ. バイオフィリア仮説

1. 理論の概要

バイオフィリア仮説(Biophilia Hypothesis)とは、人間は生得的に自然や生命あるものとの結びつきを好む傾向を持つ、とする考え方である。

この概念は、生物学者 エドワード・O・ウィルソン により1980年代に理論化された。ウィルソンは、人類の進化史を背景に、自然環境との関係性が生存や適応に寄与してきた結果、その嗜好が心理的傾向として残存している可能性を指摘した。

2. 肯定的見解

肯定的立場では、以下の点が示唆されている。

これらの研究は、育てる行為が人間の心理状態と一定の関係を持つ可能性を示している。

3. 慎重・批判的見解

一方で、バイオフィリア仮説には以下のような指摘もある。

近年では、バイオフィリアを「普遍的本能」ではなく、気質的傾向(trait)や学習の結果として捉える研究も増えている。このため、バイオフィリアは仮説段階にあり、結論は確定していないというのが現在の研究的整理である。

Ⅱ. 園芸療法

1. 園芸療法とは何か

園芸療法(Horticultural Therapy)とは、植物や園芸活動を用いて、心身の安定や生活の質向上を支援する実践・研究分野である。医療・福祉・教育の領域で導入され、対象は高齢者、障害者、慢性疾患患者、健常者まで幅広い。

重要なのは、園芸療法が「治療効果を保証する手法」ではなく、関わり方そのものに意味を見出す実践として位置づけられている点である。

2. 報告されている効果領域

研究・実践報告でしばしば挙げられるのは以下の点である。

特に注目されているのは、「成果」よりも「関わりの継続」が心理的安定と関連する点である。

3. 限界と未解決点

一方、園芸療法研究には以下の限界がある。

そのため、園芸療法の効果は因果関係が確定した科学的事実というより、傾向的知見として扱われている。

Ⅲ. 加齢と園芸嗜好

1. 高齢期に園芸嗜好が増える傾向

多くの調査・観察研究で、年齢を重ねるにつれて園芸や植物栽培への関心が高まる傾向が報告されている。

しかし、これを単純に「暇になったから」と説明するのは不十分である。

2. 実利的要因

これらは明確な実利であり、園芸が合理的選択となる側面を持つ。

3. 非実利的要因

一方で、以下の要因も指摘されている。

特に、「育てること自体が目的化する」傾向は高齢期に顕在化しやすいとされる。

4. 本能か、文化か

加齢と園芸嗜好の関係については、本能的欲求の表出、生活環境の変化、世代文化の影響、身体能力・感覚の変化など、複数要因が絡み合っていると考えられている。

現時点では、単一の説明モデルは存在しない。

Ⅳ. 未解決点と研究の現在地

本補足資料で整理した理論・研究から、以下の点は依然として未解明である。

これらは現在も研究が進行中のテーマであり、結論を急ぐべきではない領域である。

補足資料Aまとめ

育てる欲求は、科学的に「証明された本能」ではない。しかし同時に、単なる趣味や偶然として切り捨てるには、あまりに多くの研究と実践が積み重なっている

本研究ノートでは、これらの理論を「答え」としてではなく、問いを深めるための地層として扱う。それが、「育てるという行為は、いつから目的になったのか」という問いに向き合う、最も誠実な姿勢である。

次章(研究ノート008)への予告
── 見るための植物、空間のための植物

研究ノート007では、「育てる」という行為そのものに焦点を当て、人が時間と手間を引き受け続ける理由を探ってきた。次章008では、あえてその対極に位置するテーマ ── 「育てることを主目的としない観葉植物」へと視点を移す。

鑑賞目的の観葉植物とは何か。それは単に「世話をしない植物」や「装飾用の植物」なのだろうか。あるいは、空間演出・印象操作・感情喚起といった、別種の価値を担う存在なのか。

本章では、以下の視点から「見るための植物」が成立してきた背景を整理する。

また、育てる植物とのあいだに生じる価値の断絶なのか、連続なのかについても検討する。

育てないから浅いのではない。だが、育てないことで失われているものは何か。そして、人はどのような場面で「育てる」ことを手放し、「鑑賞」を選ぶのか。

007で浮かび上がった問いを反転させることで、観葉植物という存在が、人と空間の中で担ってきた役割を、もう一つの軸から照らし出していく。

本研究ノートについて

本研究ノートは、業務用装飾グリーンを実務として扱ってきたメーカーの立場から、観葉植物・生木・フェイクグリーン・人工樹木に関する既存の研究・文献・統計・事例・技術情報を収集・整理し、学術的な新規発見を目的とするのではなく、「現場でどのように判断し、何を基準に選定すべきか」という実務的判断軸の明確化を主眼として、空間づくりの実務に実際に活用できる知見として再構成・検証した記録である。なお本研究ノートは、観葉植物ラボが継続的に行っている業務用装飾グリーン研究の一環として位置づけられており、今後も同様の研究・検証を重ねることで、判断に使える知見の蓄積と共有を行っていく。

研究体制・監修表記

監修
河端(観葉植物ラボ 代表監修者)
主任研究員
シルベ
研究員・編集
トモ

※本研究ノートの内容は、複数の公開情報・既存研究・業界知見をもとに、観葉植物ラボ独自の実務視点で整理・編集されています。

研究姿勢・免責事項

本研究ノートは、情報の正確性・再現性に最大限配慮して作成していますが、すべての空間条件・設計条件・管理環境に対して結果を保証するものではありません。具体的な設計・導入・運用判断については、各施設・用途・環境条件に応じた専門的検討を前提としてください。

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