観葉植物ラボ
研究ノート第一巻 第Ⅳ章|016 植物画・ボタニカルアートはなぜ成立するのか
人・文化・空間・視覚から読み解く装飾グリーンの本質
目次
【第Ⅳ章|自然欲求の正体】人は何を「自然」として感じているのか
研究ノート016|植物画・ボタニカルアートはなぜ成立するのか
── 実物がなくても自然を感じる理由
はじめに(研究課題の明示)
人間はしばしば、実物の植物が存在しないにもかかわらず自然を感じ取ることができる。この現象は日常的に観察されるが、その成立条件については必ずしも明確に説明されてきたとは言えない。例えば、人は写真や映像の中の森林を見て自然を感じることができるし、さらには人工植物や模型を通しても自然の印象を得ることができる[注1]。しかし、これらの事例の中でも最も特異な位置にあるのが植物画、すなわちボタニカルアートである。
植物画は立体物ではなく平面上の表象にすぎない。そこには生命活動も存在しないし、生物学的な意味での自然も存在しない。それにもかかわらず、人は植物画を見て自然を感じ、美しさを見出し、ときには深い感動すら覚える。この事実は、自然という感覚が必ずしも現実の自然環境に依存していないことを示唆している[注2]。
植物画の歴史は極めて古く、古代文明の壁画や装飾文様の中にも植物表現が確認される[注3]。それらは宗教的象徴として描かれた可能性もあれば、薬用植物の記録として制作された可能性もあり、また単なる装飾として制作された可能性もある。しかしいずれの場合であっても重要なのは、人間が非常に早い時代から植物を視覚的表象として描き残してきたという事実である。この歴史的事実は、植物表現が単なる代替物としてではなく、独自の意味を持って存在してきたことを示している。
さらに注目すべき点は、植物画が東西の絵画史において常に主要なモチーフとして扱われてきたことである。西洋絵画においては細密な植物描写が科学的観察の基礎となり、同時に芸術的価値を獲得してきた[注4]。一方、日本絵画においても花鳥画や草花図は重要な分野として発展し、写実的描写から装飾的表現まで幅広い様式が成立している[注5]。このような歴史的継続性は、植物という対象が絵画表現において特別な位置を占めていることを示している。
しかしここで注目すべき問題が存在する。絵画としての植物は当然ながら実物の植物に及ぶものではない。そこには成長もなければ時間の変化もなく、香りも触覚も存在しない。にもかかわらず植物画は価値あるものとして評価され、ときには実際の植物よりも高価な価格で取引される[注6]。この現象は単なる自然の代替という説明では理解できない。
ここには明らかな価値の転換が存在する。すなわち植物画は自然の代用品として存在しているのではなく、芸術作品として独立した価値を持つ存在として成立しているのである。この段階において植物表現はフェイクや模造という概念を超え、「アート」という別種の価値体系の中に位置づけられることになる[注7]。
この転換は重要な問題を提起する。もし植物画が単なる自然の代替ではないとすれば、人間は何を求めて植物画を制作し鑑賞してきたのだろうか。そこに存在するのは自然への欲求なのか、それとも芸術への欲求なのか、あるいはその両者が混在したものなのか。この問題は自然欲求の本質を理解する上で重要な手がかりを提供する。
さらに古代の植物表現に目を向けるならば、そこには現代の芸術概念では説明できない要素が多数存在する。植物画は記録であった可能性もあり、宗教儀礼の一部であった可能性もあり、また知識伝達の手段であった可能性もある。しかし現存する資料からはその動機を完全に特定することはできない。この不確定性そのものが、人間が植物表現を必要としてきた理由の複雑さを示していると言える。
本研究ノートでは、植物画およびボタニカルアートを中心として、実物が存在しなくても自然が成立する理由を検討する。同時に、植物表現が自然の代替物から芸術作品へと転換していった過程を考察し、人間が自然だけでなく表象された自然を欲してきた理由を明らかにすることを目的とする。
注・引用
[注1]
Ulrich, R. S. (1984). View through a window may influence recovery from surgery. Science.
日本語訳要旨:窓から見える自然景観は患者の回復に影響を与える可能性があることを示した研究。自然は実物でなく視覚情報でも心理効果を生じる可能性を示唆する。
[注2]
Kaplan, R. & Kaplan, S. (1989). The Experience of Nature.
日本語訳要旨:自然体験は物理的環境だけでなく認知的解釈によって成立する。人間は象徴的情報から自然を認識する能力を持つ。
[注3]
Wilkinson, R. H. (2003). The Complete Gods and Goddesses of Ancient Egypt.
日本語訳要旨:古代エジプトの壁画や装飾には植物表現が頻繁に登場し、象徴的意味を持つ場合が多い。
[注4]
Blunt, W. (1994). The Art of Botanical Illustration.
日本語訳要旨:西洋の植物画は科学的観察と芸術表現の双方において発展した。
[注5]
Tsuji, Nobuo (2018). History of Art in Japan.
日本語訳要旨:日本美術史において花鳥画や草花図は重要な分野として長く発展してきた。
[注6]
Artprice (2023). Global Art Market Report.
日本語訳要旨:芸術作品はしばしば物質的価値を超えた価格で取引される。
[注7]
Benjamin, Walter (1936). The Work of Art in the Age of Mechanical Reproduction.
日本語訳要旨:芸術作品は単なる再現物ではなく独自の価値を持つ存在として成立する。
Ⅰ. 最も純粋な再現としての植物画
植物画は自然再現の中でも最も抽象的な形態に属する表現である。前章で述べたように、人間は実物の植物が存在しなくても自然を感じることができるが、その成立条件を検討するためには、自然再現の段階を整理する必要がある。本章では、生植物・人工植物・植物画という三段階を比較しながら、自然がどのような条件で成立するのかを検討する。
この比較によって明らかになるのは、自然という感覚が必ずしも生命や物質そのものに依存していないという事実である。むしろ自然は段階的に抽象化されながらも維持される性質を持っている。この現象を理解することは、植物画が成立する理由を解明するうえで不可欠である。
Ⅰ-1. 三段階の自然再現
自然再現の形態は大きく三つの段階に分けることができる。
第一段階は生植物である。これは自然再現ではなく自然そのものの存在である。生植物は成長し、水分を吸収し、光合成を行い、時間とともに変化する。そこには生命活動が存在し、自然環境との相互作用が存在する。この段階において自然は最も完全な形で成立していると言える[注1]。
第二段階は人工植物、すなわちフェイクグリーンである。人工植物は立体物としての形態を持ち、色彩や質感も一定程度まで再現されるが、生命活動は存在しない。成長も枯死もなく、環境との相互作用も存在しない。それにもかかわらず人工植物は自然の代替物として広く受け入れられている。この事実は、自然の認識が生命活動そのものよりも視覚的特徴に強く依存していることを示している[注2]。
第三段階が植物画である。植物画は平面上の表象にすぎず、立体性すら存在しない。そこには生命活動も物理的存在もない。素材は紙や絵具であり、生物学的意味での自然は完全に欠如している。しかしそれにもかかわらず、人間は植物画を見て自然を感じることができる。この現象は自然認識の成立条件を考える上で極めて重要な意味を持つ[注3]。
この三段階を比較すると、自然再現の要素は段階的に失われていくことが分かる。
| 種類 | 立体性 | 生命 | 情報量 |
|---|---|---|---|
| 生植物 | 有 | 有 | 最大 |
| 人工植物 | 有 | 無 | 中 |
| 植物画 | 無 | 無 | 最小 |
生植物は立体性と生命活動を備え、時間とともに変化する最も情報量の多い存在である。人工植物では生命活動が失われるが、形態情報は維持される。植物画ではさらに立体情報も失われ、最小限の視覚情報だけが残る。
この段階構造が示しているのは、自然という感覚が物理的存在に比例して成立しているわけではないという事実である。情報量が減少しても自然の印象は完全には失われないのである。
この現象は認知科学の観点から理解することができる。人間の知覚は外界の情報を完全に再現するものではなく、限られた情報から意味のある対象を再構成する仕組みを持っている。わずかな視覚情報から対象を認識できる能力は、知覚の基本的特徴である[注4]。
植物画はまさにこの能力によって成立している。数本の線や色彩の配置だけでも人間は植物を認識することができる。場合によっては極めて単純な図形であっても植物として理解されることがある。このことは植物認識が精密な再現を必要としていないことを示している。
ここで重要なのは、植物画が人工植物よりもさらに抽象的な存在であるにもかかわらず自然が成立するという点である。人工植物は立体的な代替物として設計されているが、植物画は必ずしも代替物として制作されるわけではない。それにもかかわらず自然の印象が成立するという事実は、自然という概念が外界の物体ではなく認識の内部で形成されるものであることを示唆している[注5]。
したがって植物画は自然再現の極限に位置する表現であると言える。そこでは生命も物質も存在しないが、それでも自然は成立する。この事実は次の重要な結論へと導く。
自然は物体として存在するだけでなく、認識として成立する。
植物画の成立はこの原理を最も明確に示している。
注・引用
[注1]
Raven, P. H. et al. Biology of Plants.
日本語訳要旨:植物は光合成・成長・代謝などの生命活動を通じて環境と相互作用する生物である。
[注2]
Bringslimark, T., Hartig, T., & Patil, G. G. (2009)
The psychological benefits of indoor plants.
日本語訳要旨:室内植物は心理的効果を持ち、人工植物でも一定の効果が観察される場合がある。
[注3]
Blunt, W.
The Art of Botanical Illustration.
日本語訳要旨:植物画は科学的記録と芸術表現の両方の役割を持つ表現形式である。
[注4]
Gregory, R. L.
Eye and Brain.
日本語訳要旨:知覚は感覚情報の単純な写像ではなく、脳による解釈過程である。
[注5]
Gibson, J. J.
The Ecological Approach to Visual Perception.
日本語訳要旨:知覚は環境との関係の中で成立し、限られた情報から対象が認識される。
Ⅱ. 視覚情報だけで自然は成立する
前章では、生植物・人工植物・植物画という三段階の比較から、自然という感覚が段階的な抽象化の中でも維持されることを示した。本章ではさらに踏み込み、なぜ最小限の情報しか持たない植物画によって自然が成立するのかを検討する。
この問題の中心にあるのは、人間の自然認識がどの感覚に依存しているのかという問いである。自然環境は本来、多様な感覚情報から構成される。そこには視覚だけでなく、触覚、嗅覚、聴覚、さらには温度や湿度などの身体的感覚も含まれる。しかし実際には、人間が自然を認識する際に最も重要な役割を果たすのは視覚である。
植物画が成立するという事実は、自然認識が視覚情報を中心として成立していることを示す重要な証拠である。
Ⅱ-1. 自然認識は視覚依存である
自然環境において人間が最初に接触する情報は視覚である。遠くの森林や山並みを見ただけでも、人はそこに自然の存在を感じることができる。そこに触れる必要もなく、匂いを嗅ぐ必要もなく、音を聞く必要もない。視覚情報だけで自然は成立する。
この現象は日常的に観察される。例えば写真や映像を通して人は自然景観を認識し、しばしば実際の自然と同様の心理的反応を示すことが知られている[注1]。視覚情報だけであっても自然の印象が成立するという事実は、自然認識の基盤が視覚にあることを示している。
植物画はこの原理をさらに明確に示す例である。植物画には立体性も触覚も存在しない。香りも温度も存在しない。それにもかかわらず、人は植物画を見て植物を認識し、自然を感じることができる。この事実は自然認識が主として視覚的特徴によって成立していることを示している。
視覚情報の中でも特に重要なのは色彩、形態、そしてパターンである。緑色は植物を連想させる代表的な色であり、葉の形態や枝の分岐構造は植物としての特徴を示す重要な手がかりとなる。また繰り返しのある構造や有機的な曲線は自然物の特徴として認識されやすい[注2]。
これらの要素が一定程度備わっていれば、人間は対象を植物として理解することができる。逆に言えば、これらの要素が存在すれば必ずしも実物の植物である必要はない。人工植物でも植物画でも自然の印象は成立するのである。
このような現象は、人間の知覚が完全な情報を必要としていないことを示している。むしろ知覚は限られた情報から意味を推定する過程であると言える[注3]。
したがって自然認識とは、外界の自然そのものを直接経験することではなく、視覚情報をもとに自然を推定する過程であると考えることができる。
Ⅱ-2. 脳は象徴から自然を再構築する
植物画によって自然が成立する理由は、脳が限られた情報から対象を再構築する能力を持っていることにある。
人間の知覚は部分的な情報から全体を補完する性質を持っている。例えば葉の一部が描かれているだけでも、人はそこに植物全体の姿を想像することができる。この能力は知覚の基本的特徴として知られている[注4]。
この過程では、現在見えている情報だけでなく過去の経験が重要な役割を果たす。人間は過去に見た植物の記憶をもとに、新しい視覚情報を解釈する。植物画を見たとき、人はその絵の中に存在しない情報までも補完しながら植物を認識しているのである[注5]。
この意味において植物画は象徴的な表現であると言える。植物画は植物そのものではなく植物を示す記号として機能する。しかしその記号を通じて人間は植物の存在を想像し、自然を感じることができる。
重要なのは、この過程において必要とされる情報量が必ずしも多くないという点である。植物画の情報量は生植物に比べて著しく少ないが、それでも自然は成立する。場合によっては極めて簡略化された図形であっても植物として認識されることがある。
この現象は自然という感覚が外界の物理的条件だけによって決まるものではないことを示している。自然の印象は外界の情報と同時に、観察者の内部に存在する記憶や知識によって形成される。
したがって自然は単なる外部環境ではなく、認識の過程の中で成立する現象であると言える。
ここで導かれる最も重要な命題は次の通りである。
自然は外部に存在するだけでなく、内部で成立する。
植物画が自然として認識されるという事実は、この原理を明確に示している。生植物が存在しなくても自然が成立するのは、自然という概念が観察者の内部において再構築されるからである。
この理解は次章の問題へとつながる。もし自然が視覚情報だけで成立するのであれば、なぜ植物は古くから絵画の主要なモチーフとして選ばれ続けてきたのだろうか。この問いを検討することによって、植物表現が持つ特別な性質が明らかになる。
注・引用
[注1]
Ulrich, R. S. (1984)
View through a window may influence recovery from surgery.
日本語訳要旨:自然景観を見ることは心理状態や回復過程に影響を与える可能性がある。視覚情報だけでも自然の効果が生じうることを示唆する研究。
[注2]
Kaplan, R. & Kaplan, S. (1989)
The Experience of Nature.
日本語訳要旨:自然の認識には秩序ある構造やパターンが重要な役割を果たす。
[注3]
Gregory, R. L.
Eye and Brain.
日本語訳要旨:知覚は受動的過程ではなく、感覚情報を解釈する能動的過程である。
[注4]
Wertheimer, M.
Gestalt Theory.
日本語訳要旨:人間は部分情報から全体構造を認識する傾向を持つ。
[注5]
Helmholtz, H. von
Treatise on Physiological Optics.
日本語訳要旨:知覚は過去の経験に基づく推論過程であるとされる。
Ⅲ. 植物が絵画モチーフとして選ばれ続けた理由
本章では、植物が絵画において長期にわたり主要なモチーフとして扱われてきた理由を検討する。前章までに示したように、人間は最小限の視覚情報からでも自然を認識することができる。しかしこの事実だけでは、なぜ数多くの対象の中から植物が選ばれ続けてきたのかは説明できない。
歴史的に見るならば、植物は東西の絵画において極めて安定したモチーフであった。人物や動物、風景などと並んで重要な題材でありながら、特に植物は写実表現から装飾表現まで幅広く適応し続けてきた。この継続性は偶然ではなく、植物という対象が絵画表現に特有の適合性を持っていることを示している。
本章では西洋絵画と日本絵画の双方を参照しながら、植物が絵画モチーフとして成立し続けた理由を検討する。
Ⅲ-1. 観察対象としての植物(西洋絵画)
西洋絵画において植物は観察対象として理想的なモチーフであった。
ルネサンス期以降、自然観察は芸術の重要な基礎となったが、その中でも植物は特に適した対象であった。例えば アルブレヒト・デューラー の植物素描は、極めて精密な観察に基づく作品として知られている[注1]。
植物が観察対象として適していた理由はいくつか挙げることができる。
第一に、植物は基本的に静止している対象である。動物や人物と異なり、短時間で大きく姿を変えることがないため、長時間の観察が可能である。
第二に、形態構造が明確である。葉の形、茎の構造、花の配置などは規則性を持ち、観察と描写に適している。
第三に、装飾性を備えている。植物は色彩や形態の変化が豊かであり、純粋な観察対象であると同時に美的対象でもあった。
さらに植物は科学と芸術の両方に適応する対象でもあった。植物画は博物学の記録として制作される一方で、美術作品としても評価された[注2]。
19世紀の装飾芸術においても植物モチーフは重要な役割を果たした。例えば ウィリアム・モリス の作品では植物の形態が繰り返しのパターンとして用いられ、自然の秩序が装飾として再構成された[注3]。
このような事例は植物が単なる自然物ではなく、観察対象としても装飾素材としても優れた特性を持っていたことを示している。
Ⅲ-2. 表現対象としての植物(日本絵画)
日本絵画においても植物は重要なモチーフとして扱われてきた。
例えば 尾形光琳 の作品では梅や菊などの植物が大胆に単純化され、強い装飾性を持つ構成が成立している[注4]。
また 伊藤若冲 の花鳥画では細密な観察と装飾的構成が結びつき、独自の植物表現が成立している[注5]。
日本絵画における植物表現の特徴は、必ずしも写実性を必要としない点にある。植物はしばしば単純化され、象徴的な形態として描かれる。それでもなお植物として認識される。
この特徴は重要である。
人物画ではわずかな形態の違いが大きな違和感を生むが、植物では比較的自由な変形が許される。葉の形や枝の配置が変化していても植物として成立する場合が多い。
この柔軟性が植物を理想的な表現対象としている。
さらに日本絵画において植物は季節や時間の象徴としても機能した。桜は春を示し、紅葉は秋を示す。このような象徴性は植物表現に意味の層を加えている[注6]。
Ⅲ-3. 現実と抽象の両方に適応する対象
西洋絵画と日本絵画の比較から明らかになるのは、植物が極めて広い表現範囲を持つ対象であるという点である。
植物は写実的に描くこともできるし、抽象的に描くこともできる。
科学的図版のように正確に描かれる場合もあれば、模様や象徴として描かれる場合もある。それでも植物として成立する。
この特徴は他の対象にはあまり見られない。
人物は抽象化すると個人性が失われやすい。動物も形態が崩れると認識が困難になる。しかし植物は比較的単純な形態でも認識されやすい。
この性質は前章で述べた視覚認識の特徴とも一致している。植物は少ない情報からでも認識されやすい対象なのである。
したがって植物が絵画モチーフとして選ばれ続けてきた理由は単なる伝統ではなく、認知的特性に基づいていると考えることができる。
ここで導かれる結論は次の通りである。
植物は現実と抽象の両方に適応する稀な対象である。
この性質こそが植物を絵画の主要モチーフとして成立させ続けてきた理由である。
この理解は次章の問題へとつながる。もし植物が抽象化に適した対象であるならば、どの程度まで写実性が失われても植物は成立するのだろうか。この問題を検討することによって、植物表現の限界が明らかになる。
注・引用
[注1]
Panofsky, E.
The Life and Art of Albrecht Dürer
日本語訳要旨:デューラーは自然観察に基づく精密描写を発展させた画家である。
[注2]
Blunt, W.
The Art of Botanical Illustration
日本語訳要旨:植物画は科学的記録と芸術的表現を兼ね備えた分野として発展した。
[注3]
Morris, W.
The Decorative Arts
日本語訳要旨:装飾芸術において植物形態は秩序あるパターンの基礎となった。
[注4]
Tsuji, Nobuo
History of Art in Japan
日本語訳要旨:琳派絵画では植物が装飾的構成の中心として扱われた。
[注5]
Keyes, R.
Eccentric Spaces: The Prints of Ito Jakuchu
日本語訳要旨:若冲は細密観察と装飾性を結びつけた独自の表現を確立した。
[注6]
Addiss, S.
Japanese Art
日本語訳要旨:日本美術において植物は季節や象徴を表す重要な主題である。
Ⅳ. 写実性がなくても植物は成立する
前章では、植物が絵画モチーフとして選ばれ続けてきた理由として、現実と抽象の両方に適応できる特性を持つことを示した。本章ではさらに踏み込み、どの程度まで写実性が失われても植物は成立するのかという問題を検討する。
一般に植物画という言葉から想起されるのは、正確な形態を備えた写実的な表現である。科学的植物図譜や細密画に見られるように、葉の形や花の構造が精密に再現された表現は植物画の典型例とされている。しかし絵画史を検討すると、植物表現は必ずしも写実性を前提としていないことが分かる。
むしろ多くの場合、植物は簡略化され、変形され、あるいは象徴的な形態として描かれてきた。それにもかかわらず観察者はそれを植物として認識し続けている。この事実は植物認識の成立条件を理解する上で重要な意味を持つ。
本章では写実性が失われても植物が成立する理由を検討し、植物画が持つ特異な性質を明らかにする。
Ⅳ-1. 植物認識は厳密な再現を必要としない
植物を植物として認識するために必要な条件は、必ずしも厳密な再現ではない。
例えば子供が描いた単純な絵であっても、人はそれを木や花として理解することができる。幹を示す一本の線と葉を示す円形が描かれているだけでも、そこに木の存在を認識することができる。
この現象は植物認識が形態の正確さよりも特徴的構造に依存していることを示している[注1]。
植物を特徴づける要素としては、上方に伸びる構造、枝分かれした形態、葉状の広がり、有機的な曲線がある。
これらの要素が存在すれば、人間は対象を植物として認識する可能性が高い。
逆に言えば、これらの特徴が示されていれば形態の正確さは必ずしも必要ではない。葉の枚数が正確である必要もなければ、枝の配置が実際の植物と一致している必要もない。
この点において植物は極めて特殊な対象である。
例えば人物画では目や口の位置がわずかにずれるだけで違和感が生じる。動物画でも形態が崩れると対象の識別が困難になる。しかし植物では比較的大きな変形が許容される。
この柔軟性が植物画の成立を可能にしている。
Ⅳ-2. 象徴としての植物形態
写実性がなくても植物が成立する理由の一つは、植物形態が象徴として機能する点にある。
植物の形態は文化的に共有された象徴として存在している。例えば葉の形は「植物らしさ」を示す記号として機能する。花の形も同様に植物を象徴する形態として理解される。
この象徴性は長い歴史の中で形成されてきた。
古代の装飾文様には抽象化された植物形態が頻繁に登場するが、それらは実際の植物を正確に再現したものではない。それにもかかわらず植物として理解される[注2]。
中世の装飾写本や織物文様においても植物形態は繰り返し用いられてきたが、それらはしばしば幾何学的に単純化されている。それでも植物として認識される。
この事実は植物形態が単なる自然物の再現ではなく、文化的記号として成立していることを示している。
植物画を見るとき、人間はその絵の中に存在する形態を単なる線や色としてではなく、植物を示す記号として理解しているのである。
Ⅳ-3. 自然の印象は写実性に比例しない
重要なのは、自然の印象が写実性に比例しないという点である。
一般に写実的な表現ほど自然に近いと考えられがちである。しかし実際には必ずしもそうではない。
単純な植物画であっても自然の印象は成立するし、場合によっては写実的な表現よりも強い印象を与えることもある。
これは自然認識が単なる再現の正確さではなく、意味の理解によって成立していることを示している[注3]。
観察者は植物画を見るとき、そこに描かれた線や色を植物として解釈する。この解釈の過程が自然の印象を生み出すのである。
この意味において自然とは単なる物理的対象ではなく、理解された対象であると言える。
植物画が成立するという事実は、この原理を明確に示している。
Ⅳ-4. 抽象化の極限としての植物画
植物表現は高度に抽象化された段階においても成立する。
例えば模様として描かれた植物形態や極めて単純化されたシルエットであっても、人間はそこに植物を認識することができる。
この段階では植物画はもはや自然の再現ではなく、植物を示す象徴に近い存在となる。
それにもかかわらず自然の印象は消失しない。
この現象は自然認識の本質を示している。
自然とは必ずしも現実の自然環境ではない。自然とは自然として理解された対象である。
ここで導かれる結論は次の通りである。
植物は写実性が失われても成立する数少ない対象である。
そしてさらに重要な命題が導かれる。
自然は再現によって成立するのではなく、解釈によって成立する。
植物画の存在はこの事実を最も明確に示している。
注・引用
[注1]
Gregory, R. L.
Eye and Brain
日本語訳要旨:知覚は不完全な情報から意味を推定する過程である。
[注2]
Gombrich, E. H.
The Sense of Order
日本語訳要旨:装飾文様には自然形態の抽象化が多く見られる。
[注3]
Arnheim, Rudolf
Art and Visual Perception
日本語訳要旨:視覚芸術の理解は形態の意味解釈に基づく。
Ⅴ. 植物からアートへの転換
── 象徴化はどこから始まるのか
植物画やボタニカルアートの歴史を観察すると、当初は植物を「正確に描く」ことが中心課題であったにもかかわらず、やがて植物は写実対象ではなく芸術表現の素材へと転換していく。
この変化は単なる様式変化ではなく、人間の自然認識の構造そのものを反映している。
植物は観察対象として始まり、やがて象徴となり、最終的には抽象的造形へと変化する。この過程は、以下の三段階として理解できる。
- 植物 → 観察対象
- 植物 → 象徴対象
- 植物 → 造形要素
本章の目的は、この転換がどこから始まり、どのような心理過程によって進行するのかを解明することである。
特に重要な問題は次である。
植物が植物でなくなる瞬間はどこにあるのか。この問いは同時に、自然が象徴へ変化する境界はどこにあるのかという問題でもある。
Ⅴ-1. 植物はまず「知識対象」として描かれた
植物画の初期段階では、植物は芸術対象ではなく知識対象として描かれていた。
中世から近世初期の植物図譜では、目的は美ではなく識別であった[注1]。
- 種類を区別する
- 薬効を示す
- 形態を保存する
植物は「見るための対象」ではなく「知るための対象」であった。例えばルネサンス期の植物図譜では、形態の正確性が最重要視された。植物画は科学の一部であり、芸術ではなかった。
この段階では、「植物=対象」「表現=記録」である。
つまり植物画は自然の再現装置として機能していたのである。この段階では抽象化はほとんど存在しない。
しかしこの状態は長く続かなかった。
Ⅴ-2. 装飾化が転換点となる
植物が芸術へ転換する最初の契機は装飾化である。建築装飾や工芸では、植物は早くから象徴的に使用されていた。
特に重要なのは、繰り返し・対称性・リズムという特徴である。
植物は自然物でありながら、パターンとして使用できる。この特性は非常に重要である。なぜならこの瞬間に植物は対象から構造へ変化するからである。
例えばイスラム装飾では植物は現実の植物ではなく、曲線・リズム・密度として扱われた。植物は現実から離れ、秩序の象徴となった[注2]。この段階で起こる心理変化は明確である。人間は植物を見る対象から使う対象へ変える。
ここに最初の転換がある。
Ⅴ-3. 象徴化による自然の変換
次の段階では植物は象徴となる。宗教画では植物はしばしば意味を持つ[注3]。
- 百合 → 純潔
- 葡萄 → 生命
- 樹木 → 永続
この段階では植物は現実の植物ではない。
植物は意味の媒体となる。つまり、物=記号になる。これは極めて重要な変化である。この段階で自然はすでに外部には存在しない。自然は意味として内部化される。この内部化の過程は認知心理学的に説明できる。人間の認識は具体物を抽象化する傾向を持つ。
記号化とは、個別 → 一般への変換である。植物は個体から概念へ変わる。ここで自然は現実から離れる。
Ⅴ-4. 抽象化は必然的に起こる
植物表現が進むと、やがて抽象化が始まる。19世紀末から20世紀初頭にかけて、この変化は急激に進行した。特に重要なのはウィリアム・モリスの装飾様式である[注4]。
モリスの植物文様では、葉は単純化され、花は規格化され、全体はパターン化される。ここでは植物の個体性は失われる。しかし植物性は失われない。これは重要な事実である。
つまり、写実性が消えても植物は成立する。さらに抽象化を進めたのがワシリー・カンディンスキーである[注5]。カンディンスキーは自然の形態を完全に抽象化した。しかし彼自身は自然の印象を重要視した。ここでは重要な命題が成立する。自然は形ではなく構造である。
つまり、曲線・密度・配置が自然を成立させる。この段階では植物は完全に芸術へ転換している。
Ⅴ-5. 心理的転換の構造
植物が芸術へ変化する心理過程は次のように整理できる。
第一段階:認識
人間は植物を観察する。この段階では重要なのは正確性である。
第二段階:単純化
重要な特徴だけが残る。葉・枝・配置が抽出される。
第三段階:象徴化
植物は意味を持つ。ここでは形態は重要ではない。
第四段階:造形化
植物は造形要素になる。ここでは植物である必要すらない。この四段階は自然認識の一般構造を示している。重要なのは次の点である。植物が芸術になるのではない。認識が芸術化するのである。この視点は決定的に重要である。
Ⅴ-6. 転換が示す理論的意味
植物からアートへの転換は次の事実を示している。
自然とは外部対象ではない。自然とは認識の形式である。植物が抽象化されても植物に見えるのは、人間が内部に自然モデルを持つからである。この事実は本研究の核心命題と一致する。自然は外部ではなく内部で成立する。植物画の歴史はこの命題を裏付ける。写実 → 象徴 → 抽象という変化は、外部自然から内部自然への移行である。植物はその最も明確な例である。
注・引用
[注1]
Arber, Agnes. Herbals: Their Origin and Evolution. Cambridge University Press.
日本語訳:アーバー『植物図譜の起源と発展』
植物図譜は中世から近世にかけて主に薬用植物の識別目的で制作された。
[注2]
Gombrich, E. H. The Sense of Order.
日本語訳:ゴンブリッチ『秩序の感覚』
装飾パターンは自然形態を単純化し秩序化する傾向を持つ。
[注3]
Eco, Umberto. Art and Beauty in the Middle Ages.
日本語訳:エーコ『中世の美学』
中世絵画では自然物はしばしば象徴的意味を担った。
[注4]
Greenhalgh, Paul. The Arts and Crafts Movement.
日本語訳:グリーンハル『アーツ・アンド・クラフツ運動』
ウィリアム・モリスの装飾様式は自然形態の単純化に基づく。
[注5]
Kandinsky, Wassily. Concerning the Spiritual in Art.
日本語訳:カンディンスキー『芸術における精神的なもの』
芸術は自然形態の再現ではなく内面的表現である。
Ⅵ. 人はなぜアートを欲するのか
── 自然から表現へ移行する心理構造
本研究ノートでは、植物画やボタニカルアートの成立過程を検討してきた。その結果明らかになったのは、人間は自然を単に再現するだけでは満足せず、やがて必ず表現へ向かうという事実である。
植物は最初、観察対象として描かれる。しかしやがて象徴となり、最終的には芸術表現へ変化する。この変化は偶然ではない。
むしろ人間の認識構造そのものが、自然の再現からアートの創造へ向かう傾向を持っているのである。
本章では次の問いを扱う。なぜ人は自然だけでは満足しないのか。
そしてもう一つの問いがある。なぜ人はアートを必要とするのか。
この問いは単なる美学の問題ではない。それは人間の認識と欲求の構造を明らかにする問題である。
結論を先に述べるならば、人間は自然を認識する存在であると同時に、自然を再構成する存在である。
アートとはこの再構成行為そのものである。
Ⅵ-1. 認識は必ず再構成になる
人間の認識は単なる受動的過程ではない。外界をそのまま受け取るのではなく、常に再構成する。
認知心理学では知覚は情報処理過程と考えられている。
人間の脳は、必要な情報を選び、不足を補い、全体像を構築する。この過程は自動的に起こる[注1]。
つまり人間は世界をそのまま見ているのではない。世界を構成して見ている。この事実は極めて重要である。
なぜならここにアートの起源があるからである。
もし認識が完全に受動的ならば、人間は再現だけで満足するはずである。しかし実際にはそうならない。
人間は必ず表現へ向かう。それは認識自体が再構成だからである。
Ⅵ-2. 完全な再現は不可能である
もう一つの重要な要因は、現実の完全再現は不可能であるという事実である。現実世界は情報量が無限に近い。
例えば植物一つでも、色の変化・光の変化・成長の変化・季節変化が存在する。これを完全に再現することはできない。そのため再現は必ず省略になる。この省略が重要である。省略は選択を生む。選択は表現を生む。
つまりアートは偶然ではない。再現の限界から必然的に生まれる。
美術史家のエルンスト・ゴンブリッチは、絵画は自然のコピーではなく修正過程であると述べた[注2]。これは重要な指摘である。表現とは修正の蓄積である。つまりアートとは再現の失敗ではない。
再現の必然的帰結なのである。
Ⅵ-3. 意味を作る欲求
さらに重要なのは、人間には意味を作る欲求があることである。自然そのものは意味を持たない。しかし人間は意味を求める。例えば宗教画では自然物は象徴となる。
植物は単なる植物ではなく、生命・永続・純潔などの意味を持つ[注3]。
ここで重要なのは、意味は自然の中に存在しないことである。意味は人間が作る。つまりアートとは意味生成の手段である。
この視点から見ると、アート欲求とは意味欲求である。自然を見るだけでは意味は完成しない。意味を形にする必要がある。
それがアートである。
Ⅵ-4. 秩序を求める欲求
人間は秩序を求める存在でもある。自然は複雑である。しかし人間は秩序を好む。
例えば装飾模様では、対称性・繰り返し・リズムが使用される。
これらは自然の単純化である。人間は秩序化された自然に安心を感じる[注4]。つまりアートとは自然の秩序化でもある。
この点は極めて重要である。自然は不確実である。しかしアートは制御可能である。
アートとは制御された自然なのである。
Ⅵ-5. 自己表現欲求
アートにはもう一つの側面がある。それは自己表現である。自然観察では主体は目立たない。しかし芸術では主体が現れる。20世紀の芸術理論では、芸術は内面表現と考えられるようになった。例えばワシリー・カンディンスキーは、芸術は外界ではなく内面を表現すると述べた[注5]。
ここで重要な転換が起こる。自然中心の世界から、主体中心の世界への転換である。この段階では、自然は素材にすぎない。
アートとは主体の活動になる。
この転換は決定的である。
Ⅵ-6. アート欲求の構造
以上を統合すると、アート欲求は次の四要素から構成される。
①再構成欲求
人間は世界を再構成する。
②意味欲求
人間は意味を作る。
③秩序欲求
人間は秩序を求める。
④表現欲求
人間は自己を表す。
この四要素が合わさると、自然はアートへ変化する。つまりアート欲求とは特殊な欲求ではない。
人間の基本的欲求の統合である。
Ⅵ-7. 転換点の正体
最も重要な問題は、どこで自然がアートへ転換するかである。その境界は明確ではない。しかし一つの基準がある。それは次の瞬間である。対象より構成が重要になった瞬間。この瞬間、自然は素材になる。そしてアートが成立する。この転換は外部では起こらない。内部で起こる。つまり、アートとは対象の変化ではない。
認識の変化である。
Ⅵ-8. 理論的結論
本章の結論は明確である。人間はアートを欲する。それは文化的偶然ではない。認識構造の結果である。
人間は、再構成し、意味づけし、秩序化し、表現する存在である。
アートとはこの活動の統合形態である。したがって次の命題が成立する。
自然欲求とアート欲求は対立しない。むしろ、アート欲求は自然欲求の延長である。この事実は本研究全体の核心命題を支持する。
自然は外部ではなく内部で成立する。
アートとはその内部自然の表現である。
注・引用
[注1]
Gregory, Richard. Eye and Brain: The Psychology of Seeing.
日本語訳:グレゴリー『脳と視覚』
知覚は受動的過程ではなく仮説形成過程である。
[注2]
Gombrich, Ernst. Art and Illusion.
日本語訳:ゴンブリッチ『芸術と幻影』
絵画は自然のコピーではなく修正過程の産物である。
[注3]
Hall, James. Dictionary of Subjects and Symbols in Art.
日本語訳:ホール『美術の象徴辞典』
植物は宗教美術において象徴的意味を担う。
[注4]
Arnheim, Rudolf. Art and Visual Perception.
日本語訳:アルンハイム『美術と視覚』
人間は秩序化された視覚構造を好む。
[注5]
Kandinsky, Wassily. Concerning the Spiritual in Art.
日本語訳:カンディンスキー『芸術における精神的なもの』
芸術は自然の再現ではなく内面的必然性の表現である。
Ⅶ. 最古の植物画の謎を解き明かす
── 植物はなぜ最初期から描かれていたのか
これまでの章では、植物画が自然再現の一形式として成立し、やがてアートへ転換していく過程を検討してきた。
しかしここで一つの根本的な問題が残る。なぜ人類は極めて早い時代から植物を描いていたのか。
洞窟壁画や古代文明の遺跡には、動物だけでなく植物も描かれている[注1]。これは単純な事実のようでいて、極めて謎の多い現象である。なぜなら植物画の成立には実用的必然性が存在しないからである。
植物は採集すればよい。育てればよい。記録する必要は必ずしもない。それにもかかわらず、人類は植物を描き続けてきた。本章ではこの謎を検討する。
重要なのは次の前提である。最古の植物画の目的は確定していない。したがって本章では断定ではなく、可能性の構造を整理する。それによって次の命題を検討する。
人間は自然を利用する以前に表現していたのではないか。
Ⅶ-1. 記録としての植物画
最も単純な仮説は、植物画は記録だったという説である。
古代文明では植物は重要な資源だった。
例えば古代エジプトでは、植物は農業や薬用に使用された。そのため壁画や文書に植物が描かれた[注2]。
この仮説は合理的である。しかし限界もある。多くの植物画は実用記録としては不正確である。形が単純化され、様式化されている。これは純粋な記録では説明できない。
つまり植物画は記録である可能性はあるが、それだけではない。
Ⅶ-2. 宗教的象徴としての植物画
第二の仮説は宗教説である。多くの文明で植物は神聖視された。
例えば古代エジプトでは、蓮やパピルスは再生の象徴だった[注3]。このため植物は宗教壁画に頻繁に登場する。この仮説は強力である。しかしこれも完全ではない。
洞窟壁画の多くでは、宗教的意味は不明である。証拠が不足している。
つまり宗教説は有力だが、決定的ではない。
Ⅶ-3. 伝達手段としての植物画
第三の可能性は伝達である。絵は言語以前の伝達手段だった可能性がある。例えば採集可能な植物や季節情報を共有するために描かれた可能性がある[注4]。これは理論的には成立する。しかし確証はない。考古学的資料からは、意図を確定できない。ここに最古の植物画研究の困難がある。
Ⅶ-4. 観察欲求としての植物画
第四の可能性は観察欲求である。人間は周囲の世界を理解しようとする。この過程で描写が生まれた可能性がある。これは科学の起源にも通じる。実際、後の時代の植物画は科学的観察と結びつく[注5]。しかし最古の植物画が科学的観察だった証拠はない。この仮説も部分的説明にとどまる。
Ⅶ-5. 解明されない要素
ここまでの検討から分かるのは、最古の植物画の目的は単一ではないことである。
- 記録
- 宗教
- 伝達
- 観察
いずれも可能性がある。しかしどれも決定的ではない。この事実自体が重要である。なぜなら次の可能性を示唆するからである。
植物画は目的以前に存在した可能性がある。
つまり人間は、必要だから描いたのではない可能性がある。これは重要な仮説である。
Ⅶ-6. 欲求としての植物画
もし植物画が単なる実用行為ではないならば、そこには欲求がある。その欲求は複合的である。
自然を理解したい欲求、記録したい欲求、意味づけたい欲求、表現したい欲求。これらが混在していた可能性が高い。
ここで重要な結論が導かれる。植物画は一つの目的から生まれたのではない。複数の欲求が重なって生まれた。これは現代のアートと同じ構造である。
Ⅶ-7. 根本的謎
最も重要な問いは残る。なぜ植物だったのか。動物は理解できる。食料であり、危険でもある。
しかし植物は動かない。それでも描かれた。これは偶然ではない。植物は身近で多様で規則性があり観察しやすい対象だった。
つまり植物は描写対象として理想的だった。ここに一つの可能性がある。
植物は最初の自然モデルだった可能性がある。
Ⅶ-8. 理論的結論
本章の結論は断定ではない。しかし次の命題は成立する。
最古の植物画は記録でもあり、宗教でもあり、伝達でもあり、観察でもあった可能性がある。しかしそれ以上に重要なのは、目的が確定していないことである。この不確定性は偶然ではない。
それは人間の本質を示している。人間は必要だけでは行動しない。意味を求め、表現し、世界を再構成する。
植物画はその最初の証拠の一つである。ここに研究ノート016の最終命題が成立する。実物がなくても自然は成立する。そしてさらに強い命題が導かれる。自然を成立させる行為そのものが人間の本質である。
最古の植物画とは、その最初の痕跡なのである。
注・引用
[注1]
Clottes, Jean. Cave Art.
日本語訳:クロット『洞窟美術』
洞窟壁画には動物だけでなく植物的形態も存在する。
[注2]
Wilkinson, Richard. The Complete Gods and Goddesses of Ancient Egypt.
日本語訳:ウィルキンソン『古代エジプト神話事典』
古代エジプトでは植物が壁画に描かれた。
[注3]
Budge, E.A.W. Egyptian Religion.
日本語訳:バッジ『エジプト宗教』
蓮やパピルスは再生の象徴だった。
[注4]
Mithen, Steven. The Prehistory of the Mind.
日本語訳:ミゼン『心の先史時代』
先史芸術は情報伝達の可能性がある。
[注5]
Blunt, Wilfrid. The Art of Botanical Illustration.
日本語訳:ブラント『ボタニカルアートの歴史』
植物画は後に科学観察と結びついた。
Ⅷ. 欲求だけでは説明できない領域
── 人間行動に残る不可解な部分
本研究ノートではこれまで、人間が植物画やボタニカルアートを成立させてきた背景を「欲求」という概念から分析してきた。
すなわち人間には、自然を認識する欲求・再現する欲求・意味づける欲求・表現する欲求が存在し、それらが植物画を成立させたと考えられる。
しかしここで一つの問題が残る。欲求だけでは説明できない行動が存在する。これは極めて重要な問題である。
なぜなら、人間の行動がすべて欲求によって説明できるならば、文化は完全に合理的に理解できるはずだからである。しかし現実にはそうならない。
歴史には、理由が分からない表現・目的が不明な制作・実用性のない行為が数多く存在する。
植物画の起源にも同様の問題がある[注1]。したがって本章では次の問いを扱う。人間の行動には欲求を超えた領域が存在するのか。
本章の目的は欲求理論を否定することではない。むしろ欲求理論の限界を明確にすることである。
Ⅷ-1. 説明不能な行動の存在
人間の歴史には説明が困難な行動が存在する。例えば先史芸術には、危険な場所に描かれる、労力が大きい、実用性が低いという特徴がある。
洞窟壁画の多くは、生活空間から離れた場所に描かれている[注1]。これは合理的ではない。生活のためならば、もっと便利な場所に描けばよい。しかし実際にはそうなっていない。この事実は重要である。
人間の行動は必ずしも効率的ではない。つまり欲求だけでは説明が不完全になる。
Ⅷ-2. 意味が不明な表現
もう一つの問題は、意味が不明な表現が存在することである。多くの古代美術の意味は失われている。図像は存在するが、意図は分からない。これは単なる資料不足ではない。そもそも明確な意味がなかった可能性もある。芸術史家のエルンスト・ゴンブリッチは、図像は必ずしも明確な意味を持たないと指摘している[注2]。これは重要である。もし意味が存在しない場合、意味欲求では説明できない。
つまり表現は意味以前に存在する可能性がある。
Ⅷ-3. 偶然の役割
人間の文化には偶然が関与する。これはしばしば見落とされる。例えば技術革新には、材料の発見、技法の発見、失敗からの改良という偶然が影響する。
これらは計画的ではない。芸術も同様である。新しい様式はしばしば偶然から生まれる[注3]。つまり文化は完全な欲求の産物ではない。偶然が含まれる。これは重要な事実である。
欲求理論は方向を説明できる。しかし細部は説明できない。
Ⅷ-4. 理解以前の行動
さらに重要なのは、理解以前の行動が存在することである。人間は常に自分の行動を理解しているわけではない。哲学者のハンナ・アーレントは、人間の行為は結果を完全には予測できないと述べた[注4]。
これは重要な指摘である。行為はしばしば理解を超える。つまり人間は、理由を知らずに行動することがある。この視点は重要である。
植物画の起源も同様かもしれない。人間は理由を知らずに描いた可能性がある。
Ⅷ-5. 無目的性という可能性
さらに極端な可能性もある。それは無目的行動である。通常、人間の行動は目的を持つと考えられるしかしすべてがそうとは限らない。
遊びの研究では、行動は必ずしも実用目的を持たないとされる[注5]。遊びは利益を目的としない。しかし重要な活動である。芸術もこれに近い。植物画も最初は遊びだった可能性がある。この可能性は否定できない。
もしそうならば、欲求理論は修正される必要がある。欲求だけでは説明できない。活動そのものが目的だった可能性がある。
Ⅷ-6. 未知の領域
最も重要なのは、未知の領域が存在することである。科学的研究によって多くが解明された。しかしすべてではない。特に先史時代の精神活動は推測に頼る部分が大きい[注1]。
これは欠点ではない。むしろ重要な事実である。人間の文化は完全には解明されない。この不完全性は重要である。
それは人間が単純な存在ではないことを示している。
Ⅷ-7. 理論的結論
本章の結論は次の通りである。欲求は重要である。しかし万能ではない。人間の行動には、欲求で説明できる部分・欲求で説明できない部分が存在する。
この二重構造が重要である。欲求理論は基盤になる。しかし全体ではない。ここから重要な命題が導かれる。人間は理解できる存在であると同時に、理解しきれない存在である。
この命題は研究ノート016の最終的視点を示す。植物画は欲求から生まれた。しかしそれだけではない。そこには説明不能な部分が残る。この残余こそが重要である。なぜならそれは、人間の未知の領域だからである。そして次の命題が成立する。
自然は内部で成立するが、その内部は完全には解明されない。この事実は本研究全体の最終的到達点である。
注・引用
[注1]
Clottes, Jean. Cave Art.
日本語訳:クロット『洞窟美術』
洞窟壁画の目的は確定していない。
[注2]
Gombrich, Ernst. Art and Illusion.
日本語訳:ゴンブリッチ『芸術と幻影』
図像は単純な意味伝達ではない。
[注3]
Kubler, George. The Shape of Time.
日本語訳:クーブラー『時のかたち』
芸術様式は連続的変化の中で生まれる。
[注4]
Arendt, Hannah. The Human Condition.
日本語訳:アーレント『人間の条件』
行為の結果は予測できない。
[注5]
Huizinga, Johan. Homo Ludens.
日本語訳:ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』
文化は遊びから生まれる。
Ⅸ. 自然は物体ではなく概念である
── 自然はどこに存在するのか
本研究ノートでは、植物画やボタニカルアートを出発点として、「実物がなくても自然を感じることができる理由」を検討してきた。
その結果明らかになったのは、自然は単なる物理的対象ではなく、人間の認識の中で成立するという事実である。生植物が存在するとき、自然は明らかに存在するように見える。
しかし本研究で示してきたように、以下の事実は重要な結論を示している。
- フェイクグリーンでも自然は感じられる
- 植物画でも自然は成立する
- 抽象画でも自然は想起される
自然は物体だけでは成立しない。むしろ次の問いが浮かび上がる。
自然とは何なのか。本章では最終的結論として、自然は物体ではなく概念であるという命題を検討する。
Ⅸ-1. 自然は物体として理解されてきた
伝統的には自然は物体として理解されてきた。山や森や植物は自然である。これは常識的理解である。自然は外部に存在し、人間はそれを観察すると考えられてきた。近代科学もこの前提に立っている。自然は測定可能な対象として扱われる[注1]。この理解は強力である。しかし問題もある。それは自然の境界が曖昧なことである。例えば次の問題がある。庭は自然か。公園は自然か。盆栽は自然か。フェイクグリーンは自然か。植物画は自然か。物体として自然を定義すると、境界が不明確になる。これは重要な問題である。
Ⅸ-2. 自然経験は主観的である
自然を感じる経験は主観的である。同じ場所でも、自然を感じる人と感じない人がいる。これは客観的物体では説明できない。
自然経験は心理現象である。環境心理学の研究では、自然感覚は知覚と記憶によって形成されるとされる[注2]。つまり自然は単なる外界ではない。認識過程の中で成立する。この事実は重要である。自然とは見えるものではなく、感じられるものである。そして感じる過程は内部で起こる。
Ⅸ-3. 自然は認識によって成立する
哲学的には、自然は認識と不可分である。哲学者のイマヌエル・カントは、人間は物自体を直接知ることができず、現象として世界を認識すると述べた[注3]。これは重要な視点である。もしこの考えを適用すると、自然も現象として理解される。つまり自然は外界そのものではなく、認識された外界である。この視点から見ると、植物画で自然を感じることは不思議ではない。認識が成立すれば、自然も成立する。
Ⅸ-4. 象徴としての自然
自然は象徴としても存在する。
例えば、植物は成長・生命・再生という意味を持つ。
これらは物理的性質ではない。意味である。意味は人間が作る。美術史研究では、自然はしばしば象徴として使用される[注4]。つまり自然とは物体ではなく、意味体系でもある。この視点は重要である。自然を見るとは、意味を読むことである。
Ⅸ-5. 概念としての自然
以上を統合すると、自然は概念として理解できる。概念とは、経験を整理する枠組みである。自然という概念によって、人間は世界を理解する。
この概念は柔軟である。森林も自然である。盆栽も自然である。植物画も自然になりうる。これは物体では説明できない。概念なら説明できる。
つまり自然とは現実の対象ではなく認識の枠組みである。
Ⅸ-6. 人工物でも自然は成立する
この結論は重要な帰結を持つ。人工物でも自然は成立する。
フェイクグリーンでも、植物画でも、自然は感じられる。これは矛盾ではない。自然が概念ならば、当然の結果である。概念は物体に限定されない。ここに重要な転換がある。
自然は外部に存在するものではなく、内部で成立するものになる。
Ⅸ-7. 研究ノート016の最終命題
本研究ノートの最終命題は明確である。自然は物体ではない。自然は概念である。人間は自然を発見するのではない。自然を構成する。この構成は知覚・記憶・意味・表現によって行われる。植物画はその証拠である。実物がなくても自然は成立する。この事実は偶然ではない。それは自然の本質を示している。
Ⅸ-8. 最終結論
研究ノート016の結論は次の通りである。人間は自然を欲する。しかし欲しているのは物体ではない。
自然という概念である。
植物画が成立する理由はここにある。フェイクグリーンが成立する理由もここにある。
自然とは対象ではない。経験の形式である。そして最終命題が成立する。自然は外部に存在するが、自然経験は内部で成立する。この二重構造こそが、人間と自然の関係の本質なのである。
注・引用
[注1]
Newton, Isaac. Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica
日本語訳:ニュートン『自然哲学の数学的原理』
自然は法則に従う対象として研究された。
[注2]
Kaplan, Rachel & Stephen Kaplan. The Experience of Nature
日本語訳:カプラン『自然の経験』
自然経験は知覚と心理によって形成される。
[注3]
Kant, Immanuel. Critique of Pure Reason
日本語訳:カント『純粋理性批判』
人間は現象として世界を認識する。
[注4]
Hall, James. Dictionary of Subjects and Symbols in Art
日本語訳:ホール『美術の象徴辞典』
自然は象徴として使用される。
次章(研究ノート017)への予告
── 「本物である必要」はどこまでか
研究ノート016では、自然が物体としてだけでなく認識の中で成立する可能性を検討した。その結論は一つの新しい問題を導く。もし自然が認識の中で成立するのであれば、自然体験において「本物であること」はどこまで重要なのだろうか。
次章では植物という対象から離れ、自然風景画や風景写真を中心に検討を進める。実際の山や森や海を訪れなくても、人は写真や絵画を見て自然を感じることがある。この現象は単なる代替体験なのか、それとも独立した自然体験なのかを検討する必要がある。
特に重要な問いは、再現の精度と心理効果の関係である。写実的な風景写真と印象的な風景画とでは、どちらが強く自然を感じさせるのか。また、本物の風景との差異はどこにあるのかを検討していく。
本章では自然体験の成立条件をさらに拡張し、「本物である必要」という前提そのものを再検討することで、自然認識の構造をより明確にしていく予定である。

